熊本市中央区新町に「札の辻」という場所があります。ここは江戸時代に法令などを掲げる高札場が設けられた所であり、豊後街道や豊前街道、薩摩街道、日向往還といった主要街道の起点、交通の要衝であったそうです。
その「札の辻」より熊本城へ向かう坂道は「法華坂」と呼ばれています。坂の上に日蓮宗(法華宗)の本妙寺があったからだそうです(1614年に移転)。


この法華坂、札の辻から登り始めてすぐ右側に大きな石碑があります。神風連首領、太田黒伴雄の最期の地になります。

1876年(明治9年)10月24日23:30頃、太田黒伴雄率いる本隊約70名は、熊本鎮台砲兵営を襲撃しました。営内の将校下士卒は寝入りばなに神風連の急襲を受けてしまい、たちまち砲兵営は火の海となりました。この状況から、神風連の優勢勝ちになる勢いでした。

しかし、この立場も熊本鎮台の銃の射撃により逆転を始めました。富永守国率いる第三隊約70名は歩兵営を襲撃していましたが、戦況が厳しくなって行きました。この時、太田黒伴雄率いる本隊が歩兵営に駆けつけました。
しかし、副首領の加屋霽堅、斎藤求三郎は歩兵営で戦死。ついに太田黒伴雄も敵弾を胸板に受け倒れ込みました。同志が太田黒を背負って法華坂に退き、民家へ運び込みました。
太田黒伴雄は自身の重傷を知り、介錯を弟の大野昇雄に頼みました。
重傷を負い無念ながらも、気丈に最期に挑んだ思いは計り知れないものを感じます。太田黒伴雄が亡くなった後、神風連の勢いも衰えて行きました。
今から150年程前の事です。熊本城や二の丸、城彩苑に来ると、人々の楽しい賑わいを感じます。しかし、確かにこの場所で戦いがあったのは事実なのです。年月を重ねるごとに風化していく事もあるでしょう。
私は法華坂を通る度に思い出します。この国を思い、命をかけた先人が存在したことを。
