
JR熊本駅より北側に位置する標高133mの山があります。974年(天元2年)に祇園神社(現在の北岡神社)が鎮座した際には「祇園山」と呼ばれていましたが、1869年(明治2年)より現在の「花岡山」で呼ばれるようになりました。(画像①)
花岡山中腹には「乳水」と言う湧水が現在も湧き出ています。この湧水で甘酒を作ると、母乳が良く出ると言われ親しまれてきました。(画像②)
花岡山は、肥後の色んな歴史を見てきました。
6合目近くに「阿蘇殿松の跡」の碑があります。 阿蘇神社宮司の先祖・阿蘇惟光(12歳)が讒言にあい秀吉から切腹を命じられ、1593年(文禄2年)この地で命を絶ちました(画像③)。
すぐそばの場所より熊本城が見下ろせます。直線距離2キロメートル。 西南戦争のとき薩軍はここに大砲を運んで城をめがけて砲撃しました(画像④)。
「花岡山官軍墓地」では、1876年(明治9年10月)神風連の変で倒れた熊本鎮台司令長官 種田政明少将、参謀 高島茂徳中佐、大島邦彦中佐以下将兵116名の軍兵人が眠っています(画像⑤)。左手奥には「加賀山マリアの殉教の碑」、キリシタン弾圧時代の殉教者の墓があります(画像⑥)。
そして山頂には熊本バンド発祥の碑(画像⑦)、仏舎利塔(画像⑧)、加藤清正公の腰掛石(画像⑨)があります。
「城下の人」の著者、石光真清の幼少時、神風連(敬神党)加屋霽堅とのエピソードを一つ
花岡山の乳水辺りで友人兄弟と遊んでいると、山の上から紋付羽織袴に太刀を差し、高髷の堂々とした武士が降りてきました。真清は友人兄より、その武士が加屋霽堅と告げられます。加屋霽堅は稚児髷と刀を差した子供達を抱き上げあやしたりした後、花岡山山頂まで共に登りました。山頂では、加藤清正公の話や花岡山が城に対し脅威である事を話したりと、武士である事を誇りにするように言葉を結んだのでした。
今日、花岡山に登り城下を眺めると、沢山のビルが建ち並び時代の変化が伺えます。
この花岡山も歴史の証人です。多くの先人たちが山頂まで登り、今と同じように肥後の行く末を見守った事だったでしょう。山頂より小さく見える熊本城と新しい橋の架かる白川を眺めながら、加屋霽堅と子供達のエピソードを思い出すのでした。









