古神道の「草主人従」と一神教の「人主草従」
世界でも、日本国内でも人々は様々な宗教に基づいて暮らしています。宗教は人間の最大の捉われですから、どの教団でも敬虔な信者さんは、コワイほどの“信念!”をコビリ持っているものです。だから宗教について語るのは、対立を呼び込み、賢明でないことは承知しています。
日本の伝統思想だった「草主人従」に触れましたが、この考えは古神道に基いています。1万年前までの人類には、まだハムラビ法典もオリウス教もユダヤ教も成立しておらず、どこに住む人々も古神道的思考だったので、実は対立が極めて少ないのですが…。
「神」は中国語で、ま、いろいろな意味で使われた歴史もありますが、多くは、神秘、魔可不思議なもの、と位置ずけられてきました。孔子はこれについて「怪、力、乱、神を語らず」物の怪や、暴力や暴乱や神秘現象や死後世界などについては、一切触れぬという態度でした。
日本でもその意もありましたが、全体としては、「上、尊、頭、丞、将、佐、尉、守など」命令する人、エライ人をカミと訓読みしてきました。また郷やムラの人々の生活のうえに役立った人を郷社、村社の氏神として奉讃
しました。
ま、家の中でコワイ人を、山の神、カミさん、などと言ったりナンカもしましたが(笑)
でももっと古い型は太陽、山、水、火、風、熊、キツネにいたるまで、人間にとって有難いもの、畏れのあるものを遍く、(普く、汎く)神としていました。これは宗教学上でいうと 「汎神論」というものです。
自然物を神(尊)とするわけですから、その上の超自然的な存在を語らない、言わない、考えないわけですね。
汎神論イコール無神論(ここでいう神は、よい行いをすれば天国へ、ワルイ行いをすれば地獄へ落とされるとかの絶対権力で超自然的な裁判神を指します)たるゆえんです。
天然自然をも創造した唯一の偉大な存在を語りだしたのは、モーゼのやや以前の頃のようです。
一神教(ユダヤ教)の出現ですね。
こういう神を宗教学上では「唯一絶対創造支配神」と表現しています。ヘブライ語ではヤッハウエイ、 ポルトガル語ではデウス、アラビア語ではアッラーと発音しています。ユダヤ教の旧約教義では、無いものではないという意の神、ヤッハウエイは、獣達を支配すべきもの、コントロールすべきものとして最期に自分に似せた身体を持った、人間アダムを創り給うたと、こうなっております。
人間は圧倒的に偉いんだぞというわけです。
一神教は元来砂漠の民から起こったように、砂漠の民にはむりからぬものといえましょう。宗教学者の山折哲夫 さんがパレスチナ周辺に旅した後、ある新聞に書いていましたっけ。
「行けども行けども砂ばかりの厳しい自然条件の地域 では、偉大なる神を心の杖に戴きたくなるのも 解ります」って。
アラビア方面は十字軍以前、ヨーロッパよりも、数学も天文学も発達していたのに、応用科学の発展が乏しかったのは何故でしょう。 私は、自然条件が厳しいゆえに、自然は「思い通りにはならぬもの」を熟知していたから、自然と 調和しながら暮らす、自然をも支配しようとする考えが起こらなかったものと思っています。
ユダヤ人のイエスさんは当時の旧約の戒律を守ることはないと宣言したのが、福音の始りでした。この人を宗祖とするキリスト教が、旧約の奇跡創造説を取り入れてしまったことは、イエスさんの全体の思想からは、外れでいる なあと思っています。
人類史上の哀しみは、旧約一神教が、森の民のヨーロッパに伝播拡大したことでしょうか…。
もちろんキリスト教教義も歴史の中で様々に変遷し、いちがいにイケナイなんて言いません。特にヨーロッパではこの数十年、日曜の教会参りが40パーセント台、イエス思想のいい部分だけを取るようにして、信仰が形骸化していることは、人類にとって、それこそ福音かもしれません。
それに比べてネオコン的教義の多いアメリカでは、魂の救いを求めて70~90パーセントとか…。
ここに地球へのテロ国家の、苦悩の姿があるといえましょう。