勤皇党から敬神党へ・・・

明治6年

勤皇党は政府方針に従う進歩派と尊攘主義を掲げる保守派に分かれた。

保守派の人々は太田黒加屋を初め、敬神党と称し、欧化政策を進める国家に悲憤し、同士を集めて方針転換を目論み活動していた。

明治7年、この動きを危惧した白川県県令安岡良亮は、政府が勧める職に就こうとしない烈士等を神官にしてはと画策し、神職試験を執行した。

敬神の念熱い烈士等は受験の答案に申し合わせたように「元寇の役の様に神風が吹いて、敵を葬り国を護るであろう」と書き記し試験管を驚かせた。

この一件より、人々は烈士等を「神風連」と呼ぶようになった。

熊本城下には、神風連のほか、数多の地域団体(連)が存在したが、殊更この神風連だけが突出した精神団体として異彩を放っていた。

試験の後、烈士等は新開伊勢大神宮や錦山神社等で神官や祠掌に命ぜられ、その敬神の志を知る人々に喜んで迎えられた。

また、一方で神風連の太田黒ら指導者たちは、各所に塾を開き、後進の育成に励んでいくのである。

しげはる

神風連偲奉会運営

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