■上野堅五(うえのけんご)■




上野堅五名は在方。指導者である太田黒加屋に次いで重任を負い、斎藤求三郎と並んで敬神党の二長老と言われている。物静かな性格で、その姿は大変威厳があり、人望厚い人物であった。彼は博学で学問以外にも騎射に長けていた。江戸末期には扈従の長を勤めていたが、明治維新が起こると職を解き兄の一子に家を譲って自分は隠居するのだった。林桜園の下、古典を修め勤王と敬神思想に篤く攘夷の志深く幕末期は各地を奔走していた。維新後朝官に並んで諸陵となるが朝廷の謀は彼の期待に沿うものではなくこれを辞職して故郷に帰るのだった。

上野は中学校で教鞭を執りながらも敬神を忘れず太田黒ら同志とも積極的に交わった。後年国典の師として後進教育へ携わっていた彼の元へ十月、宮本篁十郎が訪れ切迫する情勢を告げ彼へ決起参加を促している。その数日後には新開より大澤勝彦が挙兵の知らせを告げに来る。大澤は、挙兵の既定を伝え直ちにその足で熊本へ入るよう頼むと、上野は了承し大澤と連れ立って熊本へ出るのであった。太田黒は新開にて彼の到着を待ったが、既に熊本へ上がっていると聞き、太田黒もまた是を追って新開より出るのだった。上野は熊本へ入ると直ぐ様富永を訪ねしきりに小銃の使用を説いたが、既に党内方針で斬り込みを取り上げていた為これを受け入れることは成されなかった。

二十三日、いよいよという日になって夜は富永宅で過ごし準備を整え、翌日出陣の際には鶴田伍一郎宅で最後の支度をし本陣となった愛敬宅へと急いだ。本隊に属し、激戦の歩兵営で奮戦したが営兵の銃撃の前に負傷。この歩兵営の苦戦の時、小銃の使用を進言したものの却下された事を大いに悔やんだと言う。
同じく重傷を負った首領太田黒と共に法華坂の民家に担ぎ込まれる。首領太田黒伴雄死後、愛敬宅へ運ばれたがそこへも追っ手が掛かると知ると同志達は彼等を近い場所にあった岩間宅へと移した。上野は負傷し岩間宅で床に伏していたが、事敗れ営兵の追っ手も避ける術なく万事休すと悟り身を横たえたまま、最後の力を振り絞り刀を喉に突き自刃した。六十六歳。敬神党最高齢志士の壮絶な最期だった。






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