■富永守国(とみながもりくに)■




富永守国、通称萬喜といい市助・三郎という二人の弟と母の四人で暮らしていた。
孝心厚く父親を亡くしてからは兄弟揃ってよく母親を大事にし、母が病に倒れれば炊事まで彼等は世話をした。皆孝心深く法華経を信仰する母の為、神道を志して仏教を嫌っていたが彼もあえて母を慰めんとお題目を唱えている。

富永は敬神党一党の参謀長とも言える重要な役目を任され、首領太田黒より最も信任された人物であり、挙兵に際しての策も彼が立案した。その偉器(優れた才能)は、党中に在って群を抜き太田黒は常に側に置き彼に意見を求めるほどであった。また党内統率に当たり、壮年者の集会で富永が居ないと、皆その理由を聞きただして漸く安心する程彼の存在は大きかった。平生古きを大事にし古学をも学んでいたが、ただ学び尊ぶだけでなくそれらを実践すべしと同志達に説くのであった。
富永は河上彦斎に信頼され、またその機略と素早い判断力から河上に似ていた。頭脳明晰で権謀術数に長け、物事の処理能力に富む人物であった。


挙兵時は激戦区となった歩兵営の総帥を任される。後から応援に駆け付けた太田黒らと大いに奮戦したが、近代兵器を備えた鎮西軍の前に遂に敗退、僅かに遅れ藤崎の下を走る。広岡、大野、吉岡と共に引き返し愛敬宅を目指す際、追撃を受け大野が負傷。富永等はこれを助けやっとの事で愛敬宅へ逃れた。ここで弟の重傷を知り、これを鹿島邸に移すや直ぐ様北岡邸へと向かった。
邸へ到着した時すでに他の同志は退去しており、富永も林田鉄太と共に親戚の日下野邸へ向かうのだった。日下野邸へ入り自宅へ報知すれば彼の老母は直ぐ様駆けつけその無事を喜んだ。鹿島宅に預けて来た太田黒の御軍神を敵に取られてはと懸念し、老母や日下野夫人に頼み御軍神を取りに行かせるが、その際、老母は負傷した弟が鹿島宅にて既に自刃した旨を知らされる。富永はそれを聞き、虜とならなかった事を喜び、再び老母に「亡骸は負う事は出来ぬがせめて髪の毛なりとも持ち帰ってはくれぬか」と頼んだ。老母は再び鹿島宅へ赴き我子の遺髪を切り持ち帰るのだった。

その後富永と林田は農夫に扮して本妙寺より龍田山の麓にある林田宅へ入った。この時老母は彼の身を案じ、見え隠れしながら彼等を見送っている。二人は林田宅へ入ると床下に潜伏し形勢を見守ったが、再挙の見込みなしと悟ると遂に割腹を決するのだった。
富永は林田に向かって、「謀主の一人である自分は事敗れ死ぬのは当然だが、君は自分とは異なり必ずしも死ぬ必要は無い」と言うが、林田は頑としてこれに応じなかった。これにより二人は甲山に登り割腹する事を決した。林田は父母妻に血涙もって一子後事を託し、家族との名残惜しむのだった。
富永は丁度決起の際、風邪をこじらせており未だそれが治まらぬまま奔走していたので、十月の夜の冷やかさに悪寒すら覚えたが、今更風邪の悪化を気に掛ける必要もあるまいと笑いながら林田と共に家を出た。彼等が出て後、富永の老母が風邪を引いている我子の為と自身の小袖を持ち林田家を訪れた。林田家は二人を見送り悲嘆に暮れて居り、訪ね来た老母に顛末を告げると老母は彼らを追おうとする。しかし林田の父・軍太は今はの際に彼が惑う事があってはと老母を引きとめ、子の遺して行った茶碗や刀と共に遺書を渡すのであった。

<遺書>
不幸の罪は申上様も是なく恐れ入り奉り候。此上は御身を大切に遊ばされ候様奉願上候。私共事に付御心くるひ萬々一の御事あらせられどもいたすまいかと夫のみ心がかりに御座候けつして御むふんべつなきようくれぐれも奉願上候。昨日はゆるりと御目にかかり大いにうれしき事にてのぞみたり申候。申上度事は山々御座候へどもさしかり申残し候。萬代の御寿御たもち遊ばされ候よふ祈納候 



富永、林田両名は甲山の山頂へ登り程よい場所を選んだ。先に林田が落ち着いた面持ちで座し、腹を切ると富永がこれを介錯し、次いで自ら下腹を薄く切って後喉を刺した。刀を抜き取って側に置いた後、両手を合わし頭をうつ伏せて置き、まるで
神の御前に額づく様な姿のまま息を引き取った。





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