高津は日頃から物腰控えめだが肝が据わっており、腕が立ち弁舌あって誠意ある人物である。明治8年春、人吉の青井神社神官となり同時に戸長にもなるが、同じ年の9月には神職と並行して務める事も難しくなり、収入の少ない神官職を選んでこれを専業とした。 挙兵当時、彼は何時もの如く人吉の神社に居たが、この時最後の参謀会議が召集され同志の緒方小太郎は彼を「母危篤」の書面にて来熊を促した。手紙が高津の手に届いたのは10月22日、彼はこの時25日に控えた神社の大祭の為、準備をしていたが緒方の手紙を確認すると後事を祠掌・福山某に託し万事を措いて熊本へ急行し、24日朝ついに到着した。 高津は自宅へ戻らず、阿部景器宅を訪れ初めて当夜挙兵を知り、ついで先輩の太田黒・加屋に逢って各般の方略などを聞き、一本竹町にある親戚吉村瀧蔵宅へ向かった時は既に午後2時を過ぎており高津はここに母と3歳になる娘を呼んだ。 母は高津の不意の来熊を訝るが母親の身を案じ来熊の旨告げた。後、彼は直ぐ様娘を抱き上げ菓子など与え暫く戯れていたが、再び母を省みその無事を拝し、「今宵はもう家へ戻らず直ぐ人吉へ戻ります」と告げた。母はそれを聞いて高津の好物である団子汁を吉村へ頼み拵えて彼へ与えた。それから吉村宅を辞した高津は再び阿部宅を訪れ、転じて今宵受持ちとされている種田少将宅へ少しばかり偵察へ赴くと、少将は客と碁を囲んでいた。その様を見て高津は「今夜はわが手のものかと思えば愉快である」と語った。 薄暮頃より彼は再び吉村宅を訪問し、神前に酒を供えて心中永久決別の杯を挙げるのであった。そのまま暮れて出陣し、終ぞ父とも妻とも会うことは無かった。 |