■神風連伝記■



~肥後勤王党思想起源、林桜園~
肥後勤王思想の原点である林桜園は名を有道、通称を藤次と言い熊本城下山崎町の林又右衛門の三男として生まれた。
幼少の頃は時習館に通っていたが、学風になじめず退学し、本居宣長の流れを組む国学者長瀬真幸の塾に入門。桜園はそこで国学と神道を学び「昇天秘説」を著す。
四十歳で私塾原道館を設立。教科は国学、神道、兵学、蘭学など幅広い。原道館門人は勤王党、実学党、学校党、民権党など。その数、数千人にも及び久留米の真木和泉や長州の大村益次郎らもここで学んでいる。
林桜園の理想は日本神道で天下国家を統治する事にあった。

桜園神道(内治)-----------------------------------------------------

「昇天秘説」
神道では世界は神界と人界の二つに分かれており、
神界に生死は無く、人界にのみ有りとされている。死は日本神話におけるイザナミ・イザナギ二尊の故事に由来し、人間が最も憎むべきものとされているが、神道を知り心身共に清浄潔白にして常に神明の道に叶う時は生じもせず滅びもせず常住不変の域に至る。

「宇気比考」
宇気比は、日本太古の誓約祈祷である。
神代天照大神が須佐之男命と高天原(天上界)にて宇気比する事によって数多の神々を生んだことから起こった。神代より伝わる神事の内で最も貴重な道であり、中古以来にはこの道を伝える人も途絶えてしまった。清浄無垢の真心を持って古き事実伝説を考え自ら神縁を得れば決して絶望せず、神道の誓約祈祷は猶溺者を救う船舶の如し。

「答或問書」
神道は神に仕える儀式であり、この儀式が盛んに行われた国は豊かに、民は安らかにあってこれを疎かにしては心身が穢れ皆我欲に走り内乱が起こるだろう。
また、現世を知り示す天皇は即ち現世における神(最高神官)で在ると言われ、これに仕え奉れば幽世の神明に仕え奉ると世は自ら治めるべき道理とされている。この神明を承り方は三種。一つは「審神者を持って此れを承る」二つは「ト事(占い)を持って此れを承る」三つは「誓約祈祷して夢の教えを給う」
この三つは神武以来代々の天皇の神道によって国を治める為の大要となる。

自主獨立(外政)-----------------------------------------------------
わが国の兵器軍備では外国に敗れることは必然だが、上下国民が一致し百戦負けても尚戦えば、神の加護が必ず加わり外夷の精鋭を挫くだろう。さすればわが国の国威は雷雲の如く外夷に響き、恭順させるであろう。そこで初めて開国するか否かを決めればよい。これを自主獨立の外交という。


林桜園の学説は敬神党の思想精神を鍛え上げ感化する教典そのものであった。
敬神党の烈士が時勢に逆行して信念を貫かんとした事こそ林桜園の影響によるものだった。
桜園が病に倒れて後、井戸勘兵衛が兵学を継ぎ、太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎、上野堅五等が神道を継ぐのである。


~勤王党から敬神党へ~

幕末の肥後に儒教者高本紫溟、富田大鳳を中心に一派をなす肥後勤王党の存在があった。黒船来航以来その流派に属する、宮部鼎蔵、轟武兵衛、松田重助、河上彦斎、山田信道、太田黒伴雄、加屋霽堅らによって尊攘の主義は唱道されていくのである。
しかし維新が成るとこの勤王党内は革新と保守の二派に分裂。勤王党幹部の討議会で山田ら革新派は「今日のわが国の状況は、内治さえ出来ていないのにこの上対外策を弄するのは困難であろう」と述べ、新政府へ仕える事を主張。保守派の太田黒らは愕然とし「尊攘の大義は先帝のご遺志である。維新の大業もこの大義をあきらかにするために決行したのだ。今日の腑抜けた対外政策と幕末期の醜態と一体何が違うというのか」と批判し袂を分かつ。
太田黒伴雄、加屋霽堅らを中心にあくまで尊皇攘夷に固執し、また一方で林桜園の神道を崇拝継承したこれらの人々が敬神党となり、新政府と対立していくのである。

~敬神党の主義精神~

敬神党の理想は、林桜園から引き継いだ「神ながらの教え(神道)をもって国政人事を行っていこう」というもので、欧米の思想や文化を取り入れ二千年来続く国風を変化させるのは国の過ちであるとしていた。しかし政府はこれとは全く逆に、開国の国是をとり欧米の新文明をとり、旧を捨て新をとる政策を行っていた。彼ら敬神党の目にはこの急激な変化と政策により日本の滅亡の図すら映っていたのだ。次のような逸話がある。

一党の参謀である富永守国、三郎兄弟は、賞典禄を現金に換えるため熊本県庁へ訪れたものの、与えられた金が紙幣であったため、紙幣は西洋を模したものだとしてたちまち受け取りを拒否。後日箸を持って訪れた。箸は穢らわしい紙幣をつまむ為のものだった。
野口知雄は、戊辰戦争で藩主に伴い上京する際、西洋式の銃を担がされるが、身が穢れるのを恐れ途中川に入って羽織を洗濯する。また野口は道のあちこちに引かれた電信線の下を潜るのを大いに穢らわしとし、回り道をして家に帰るもどうしても下を潜らねばならないときは扇子を頭上にかざし通った。そして、常に塩を懐中し僧侶に遇えば撒き、洋服を着た人間に遇えば撒き、文明開化に酔いしれ精神の穢れた人に遇えば撒くという徹底ぶりだった。

一党は皆常に身心を清らかにし、鳥獣肉断ち、酒菓を断ち、首領太田黒伴雄に至っては、さらに神前にて七日間の断食の後百日間の火の物断ちをし、国に降りかかる邪気を宇気比でもって払おうとしていたのである。


~同志結束~

神明の加護によって時運の非を回避せんと祈り続ける甲斐も無く新政府の描く国家は益々敬神党の理想から遠ざかって行った。一党は暗然としてこれを座視することは出来なかった。数回に渡る参謀会議に集まる者は富永守国、阿部景器、石原運四郎、緒方小太郎等。この中には長者に混じって飯田和平(太田黒の甥)や野口満雄など若年の志士の姿もあった。若者の中には早くも挙兵の義を唱えて天下に先立ち所信を貫かんと必死に画策する者もおれば、挙兵には賛成せぬ者、御神慮を伺いたて吉と出れば水火も辞せずその命の儘に習うという者もいた。
敬神党志士達は大事決行の際は必ず御神慮を仰ぎ、堅実なる信仰心を以ってその成功を必とし御神慮即ち義に合い道に適う所以と信じ、首領・太田黒の御神慮の結果によって指揮を下せば、それが同志達にとって絶対的な命となるのだった。

~反政府諸勢力との連結~

欧化政策、封建制の解体、不平等条約締結などにより、新政府に不満を持つ士族たちが各地で現われ始める。鹿児島には西郷を始めとする一党が。また長州萩においては前原一誠が。佐賀には木原義四郎が。他、小倉・久留米など時勢の非を憤り機を睨んで現政府を叩かんと息巻いていた。諸所の主義政見は必ずしも相一致する所ではなかったが、それでも敬神党の志士達は密かに彼等不平志士達との気脈を通じて相互に提携しようとしていた。
明治九年四月には同志中より富永守国、阿部景器を代表としまず秋月へ渡り宮崎重遠らと会見し互いに意見を交わして結託。転じて長州萩を訪れ今度は前原一誠と会談、前原は最初容易に胸襟を開こうとはしなかったが富永の至誠を見、遂に彼等との結託を決意する。それらを皮切りに敬神党志士達は六月には久留米志士と、更には鶴崎の儒者毛利空桑等とも会談するに至った。この他佐賀で木原義四郎に会い、島原へも足を運び、何度か回を重ね様々な志士等との結束を深めていくのである。中でも萩の前原一誠は敬神党志士と対座し語るうち、「今まで話してきた志士は気脈通ぜんと言える位に話留め深追いする事もなかったが、今は初めて死生の友を得て愉快なり」といっている。前原が如何に敬神党に傾倒してその力に頼らんとしていたかが見受けられる。富永も心地よく会談し帰ったが、この時富永は前原を「人物は高けれど之を新開(太田黒を指す)に比べればはるかに劣るだろう」と評している。緒方も曰く前原の人物を評し一度是非太田黒に会わせて見たいとさえ言いった。
近年国難が相次ぎ事に久留米での大楽源太郎惨殺事件は多くの反政府派志士達の士気を沮喪させていたので、この度の肥後、秋月、萩、佐賀等の組織だった志士間の提携は再び反対派勢力に力を取り戻させた。
※ちなみに敬神党は反政府勢力の名だたる盟主と結束を結ぶが、薩摩の西郷党に対しては「互いに信頼するには至らず」と言っている。
ある時、敬神党は野口が薩摩へ入りその西郷党の実情を探った。野口は桐野と対談し其の中で、「桐野は気宇磊落一世の傑たるを失わず。然し、それは尊皇愛国の志士になるか否かに至っては疑いを持つ事はあたわず。恐らく敬神党と提携すべき者にあらざるべし」と評した。これ対し太田黒は「桐野らは恐らく信に国を憂う仁人にあらざるべし然れどもまた志士なればその真意を知らざるべからず。」と言った。
このことからも敬神党と薩摩の関係は至極冷淡なものであったと考えられる。

この様に敬神党を発して多く散らばる志士達は結束を以って欧風文化に対峙していくのであった。


~神風連~

勤王学者林桜園グループの一党である敬神党。
断髪令、キリスト教黙認、外国人との結婚許可など新政府が押し進める文明開化の世を憂い、
宇気比を以って日本に降りかかる邪気を祓っていた。
政府は「佐賀の乱」の経験から、各地域に鎮台を置くなどして全国に散らばる反政府勢力への警戒を強める。大きな脅威となりそうな反政府組織を懐柔しようと熊本県令は敬神党に官僚への仕官を誘いかけるが、これに応える者は一人としていない。そこで今度は神官として採用すると持ちかけた。敬神を掲げる彼らがこれを辞するわけにはいかず、それぞれ熊本の神社に神官として配属となる。
神官採用の試験が行われ、ある設問の解答で「国家正しき道へ進めば、元寇の時と同じく神風が吹き夷荻を誅すること間違いなし」と全員同じ内容の答えが書かれてあった。試験官は驚き、「これはまるで神風連だ」と言いったことから敬神党は“神風連”と呼ばれるようになった。「連」というのは、もともと熊本における郷党別団体の事を指し、他に「通町連」「坪井連」「山崎連」などがあった。これら地域的に分けられたものではなく、精神主義的な繋がりを持つ「連」こそが神風連なのである。

~神風連の宇気比~

神風連が日々神に祈る中、政府はついに樺太千島交換条約を締結。日本の国土をロシアに完全譲渡する。このような軟弱体制に怒り嘆く神風連。一党の首領太田黒伴雄が宮司を務める新開大神宮に集まり、宇気比〔うけひ(い)〕を行う。

「政府に建白するか、政府要人を暗殺するか、兵を挙げるか」

結果はいづれも不可と出、神は彼らの決起を許さず。
愕然とした神風連は神前に誓うより強い結束を固めるのだった。

「我ら敬神を掲げ夷荻から国を守り国民を守る」
「廃刀・断髪令のごとき醜態は、たとえ朝令でも従わぬ」
「同志との結束を固め、礼儀を重んじ苦楽を共にす」

明治九年、廃刀令と断髪令が出ると、街にはまるで西洋の植民地にでもなったかのような意気の無い断髪丸腰の人間で溢れた。このような醜態を神風連は黙って見てはおれず、若者たちはこぞって新開大神宮に集まり、太田黒に「挙兵しよう!この一挙で死なせてくれ!」と嘆願するのであった。自身の怒気を抑えつつ神慮であるからと若い志士たちを何とかなだめる太田黒の胸中を考えると痛ましささえ覚える。彼は一同を集め、再び宇気比を乞うと今度は可と出た。ようやく挙兵が許されたのだった。
神風連一員である愛敬正元の家が藤崎八幡宮の裏手にあり鎮西鎮台に最も近かったので、一同はそこへ集まった。首領である太田黒伴雄の出で立ちは平服に刀、背には軍神八幡宮の御霊代を背負いそれを将帥の印とした。そして皆が「勝」と書かれた肩章と白い鉢巻をしていた。日本古来よりの刀槍で西洋式の武具を取り揃えた鎮西鎮台軍に戦を仕掛ける彼らに勝利への打算は全く無く、国のため神の名の下に立ち上がることのみに意義をなしていたのだった。太田黒は「これより先は神のみぞ知る。皆一身を献げ奮戦しよう。」と辞を述べ、隊を分けて出陣する。

~神風連決起とその後~

鎮西鎮台司令官種田少将邸討入は高津運記の一隊に任された。高津隊は種田邸の塀を梯子を使いよじ登り内より門を開けさせ蝋を灯しながら室内へ乱入。
種田は、東京から連れてきた芸妓小勝と共に眠っていた。高津は寝室に踏み込み、「国賊出でよ」と叫びながら頭上向けて刀を振り下ろしたが、種田は咄嗟に枕元に備えてあった枕刀で応戦。高津らは負傷者を出しながらも遂に種田少将の首を討ち取った。
丁度高津隊が行動を開始した時、石原運四郎の一隊は司令官参謀である高島茂徳中佐を討たんと途を急いだ。高津隊が丁度種田邸を引き上げる際、高島邸へ向かう石原隊と合流。ニ隊を以って高島邸に押し入ると一隊は石原指揮の下中佐捜索に当った。家中を探し回していると中佐はこれ以上潜むのは無理と何処からか逃げだそうとするが運悪く庭の泉水に躓き身を防ぐ術もなく斬られてしまった。
県令である安岡良亮邸へは吉村義節の一隊が向かった。この時安岡は参議警部ら数名と密議の最中であった。この日村上警部は安岡に敬神党志士らは他日必ず挙兵に出るだろう進言し安岡も彼等を捕縛せんとまさに動こうとしていた。これを聞いた吉村らは大いに驚きもはや一刻の猶予もなしとして、討入を開始した。
邸内に静に侵入すると村上警部や他密議にある者達を斬り付け遂に置くの間に安岡を発見。隊士の伊藤が安岡に向け一刀浴びせ重傷を負わせたが官吏に遮られ逃げられてしまう。吉村は必死に邸内隈なく探し挙げたが遂に見つけ出す事は出来ず已む無く一隊は本隊と合流すべく砲兵営へ向かうのである。

各隊が移動し始めた頃、本隊となる太田黒隊、富永隊はそれぞれに砲兵、歩兵営攻略を開始。まず砲兵営攻略を開始するは太田黒伴雄、加屋霽堅をはじめ上野堅五、斎藤求三郎以下七十名。午後十一時太田黒、加屋領袖の指揮の下、一隊は大声を上げて営内へ乱入。夜も更けて営兵も眠り始めた頃であった為この急襲に辺りは騒然となった。米村、寺田らは馬草などに火を放ち焼玉にして屯営に投げつけた。大島邦秀中佐に阻まれ一時苦境に落ちるも太田黒自ら刀を上げ中佐を斬殺。営内は混乱に陥り日本刀を振りかざし一戦に賭ける志士の前に営兵達は逃げ惑いながらも倒れていった。
遂に砲兵営は陥落。一党に死者も無く皆意気揚々と凱旋し引き揚げようとした時、背後の二の丸付近から喚声と銃声が重なり合って聞こえて来た。この二の丸付近にある歩兵営を攻め寄せる富永守国の一隊七十名は熊本城本丸付近まで進入するが、体制を立て直し始めた鎮西軍の一斉射撃に大きな被害を出してしまう。太田黒の部隊も砲兵営を片付けて富永隊の応援に駆けつける際、砲台を使おうとするもその操作が解らず。已む無く阿部景器、野口満雄らは砲兵を捕え操作法を聞きだした。一隊は勇んで前線へ持ち込むが、いざという時になって大砲は動かず太田黒は地団駄踏んで已む無く砲撃を諦め自ら先陣に立って柵門を突破を計る。この時、富永ら一隊は営兵の銃剣による攻撃に、武芸に長けた志士らを率い長槍や薙刀を用い善戦していた。数の把握が出来ぬ恐怖で押され陥落かと思われた時、燃え上がった営舎の明かりによって事態は急変した。僅かな兵力で攻める敵を知るや営兵はたちまち士気を取り戻し駆け付けた鎮台将校らの指揮の下、最新鋭の銃器による一斉射撃が行われ形勢は逆転。富永隊は一気に苦境に陥る。そして太田黒らの本隊も歩兵営に到着するが、先の戦線で快勝なしたこの本隊も堅固な営門最新式の銃弾の前に成す術もなく被害は拡大するばかり。
この激戦の中、加屋霽堅と斉藤求三郎が戦死。加屋霽堅は神風連副首領で、林桜園グループの“三強”の一人。斉藤求三郎はこの時五十八歳と一党の中では長老として慕われていた。太田黒伴雄も銃弾にやられ重傷を負い、法華坂(熊本城へ向かう坂)まで退き近くの民家を借りて義弟の大野昇雄に介錯させた。
神風連の首領たちが死んでいったあと、それぞれ一隊を率いていた者たちは仕方なく退き上げ一旦家に戻るが、戦死した者たちをしのび皆自刃。
阿部景器と石原運四郎はひたすら再挙を狙ったが、警戒が厳しく実現は難しいと分かると阿部の家でその妻以幾子と共に自刃する。



神風連挙兵本陣跡
愛敬正元が神官を務める
藤崎八幡神社(現在護国神社)の一角


神風連討入口
歩兵営への入り口


南坂に現れた大島邦秀歩兵中佐を相手に
古田十郎、青木暦太らが奮闘するが、中佐は
かなりの剣腕で二人が押され気味だった。
これを見た太田黒伴雄は二人を叱咤すると
ともに中佐を一刀のもとに斬り倒した


加屋霽堅、斉藤求三郎戦死の跡
富永隊が苦戦を強いられる中、急ぎ駆け
つけた本隊だったが、小銃による一斉射撃に
多くの志士が戦死した
二の丸歩兵営内


太田黒伴雄終焉の地
法華坂
歩兵営の戦いで重傷を負った
太田黒伴雄はこの法華坂まで退き
民家を借りて介錯させた


太田黒伴雄が宮司を務めた新開大神宮
介錯後、ここに首と御霊代を運ばせた


神風連百二十三志の墓
桜山神社。百七十名余りの志士のうち
戦死、自刃した者たちが眠っている。
墓は、阿部景器の妻・以幾子を含め全部で
百二十四ある


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神風連の乱は、一日で鎮圧され生き残った者も自害し、世間から暴挙と呼ばれざるを得ない形となってしまいました。しかしここで考えなければならないのは、彼らが最初から勝つことを目的としていなかったことです。彼らは皆が皆、西洋文明そのものに嫌悪していたわけではありません。斉藤求三郎などは林桜園の勧めで蘭学を学んでおり、神風連団体の思想自体は対等に交渉が行えるのであれば開国にも反対はしないという、これこそ林桜園の示した自主獨立と言う思想でした。政府の弱腰交渉と見境無しに流れ込んでき急速にわが国全土へ浸透していく西洋文明。大きく転回しようとしている時勢に、不動の精神たる何かを刻み付けて置く事こそが彼らの本意であり本望であったのかも知れません。


※遺族らの懇願により、大正には烈士らの忠魂が認められ、賊名除かれ太田黒、加屋領袖には贈位もなされた。同時に「神風連の乱」は、「神風連の変」と改められた。




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