斎藤久三郎は太田黒加屋領袖の相談役として上野堅吾と共に党中の長老各に位置し活躍した。斎藤名は雅言、森山家に生まれ幼少に斎藤氏へ養子に入った。 幼い頃から遊ぶよりも学問を好み、養父母は彼が遅くまで書物に没頭するのを流石に心配し、夜は早く寝て朝に早く起きて学に励めと戒めると斎藤はその日から父母の言に従い時間を定めて勉強し、時には明かりを衣で狭めてまで深夜学問に打ち込む程であった。後、林桜園門下に入り和漢学問を学び修める。 桜園死後、門下にあった者たちは年長で学識高い彼を推し屋内に塾を開いて四方より通ってくる者が多かった。学問以外にも剣道柔術薙刀などあらゆる武芸を修め諸藩周遊をする事もあった。斎藤は皇学の他に諸子百家に通じ、蘭学を学ぶ一方国事に奔走しながら各地の神社を転々とし参拝を行い怠る事はなかった。 挙兵の日が来ると、斎藤は二十二日門下生を伴い鐙田にある杵築宮に参拝し、道中門人達に世の理や意気の養成などを言い聞かせ、夜は小幡神社へ参通し戦勝の祈願を行うのであった。彼の家族は挙兵の起こるのを薄々感じていたが何も言わず平生の通り過ごし彼自身もまたそれを自ら告げることは無かった。 いよいよ挙兵当日になって、新開村より太田黒伴雄が訪ねてきた。彼は朝鮮棒(駄菓子)をたくさん買って来て、斎藤の孫・久熊へ向かい『久さんあげよう』と言い与えるのだった。太田黒を屋内へ向かえると、神前に供えてあった神酒を酌み交わし家族との決別を終えると、大事にする槍を携え太田黒に付き従い家を後にした。彼らはひとまず下立田にある橋田家へ入り挙兵に備える。 斎藤は養子熊次郎と共に父子揃って出陣し、求三郎は大砲営へ熊次郎は興倉中佐襲撃隊に加わる。斎藤は大砲営で戦勝し、苦戦していた歩兵営へ転じ槍を手に太田黒加屋領袖らと奮闘したが、近代兵器を前に無念の戦死を遂げた。享年五十八歳。 |