■石原運四郎(いしはらうんしろう)■




石原運四郎、名を次弘といい、熊本藩士河口杢兵衛の家に七人兄弟の末子として玉名郡高瀬町に生まれた。林桜園の門下に入り、山鹿流兵法を学びまた剣術では示現流を修めるなどし専ら武の道に通じていた。幼少の頃からその武技は人をしのぎ、争闘を好む気性の激しい性格であった。
十四歳のとき村上氏の養子となり江戸詰めを命ぜられる。日ごろ彼の気性を憂いていた母が書を送り戒めると、教訓身に染みて、その書を常に懐に携え一時も放さなかった。そして江戸での任が終了する頃には性格も穏やかになり、人との争いを避け、まるで別人のようになっていた。江戸での在任中に大野鉄兵衛と知り合い、行を共にし陽明学に傾倒する。
外見は一切飾らず、武人の風采があり、また吟詠に長じその澄んだ美声は誰もが傾聴するほどであった。
文久三年に養家を辞し、翌年元治元年、二十三歳で石原次右衛門の養子となる。次右衛門は同じ養女であった木村杢助の娘ヤス子を運四郎に配す。彼はこれより後、山鹿流を前原時久に学びつつ桜園の原道館にも出入りするようになり、維新後は自らも若い同志達をあつめて兵学を講じた。


幕末のある時、熊本藩士入佐某が藩邸で行われた会議で討論の末同僚である下田某と他三名を斬り逃走する事件が起こった。藩政は殺された下田の方を武士の体面を穢した者としていたので知行を取り上げ、下田家はお家断絶の状態となった。これを下田の妻はひどく悲憤し、十三歳になる息子に仇討ちを託す。息子は諸国を巡り仇を探し回るも見つからず、母親とともに貧困の中を生き、それでも初志を貫かんと仇討ちの旅を続けていた。
明治四年、ついに入佐は山口藩に捕縛され熊本藩に引き渡される事となった。運四郎はその時藩の定廻り役で、入佐の身柄を受け取る任にあった。母子は運四郎を訪ね、是非とも仇討ちさせて欲しいと熱心に頼みこむ。この話をかねてより知っていた運四郎は母子に大いに同情するところがあった。だが入佐を熊本へ連れて帰る事が、藩より預かった自分の任でありこれに私情を入れることは許されない。仇討ちさせたとあらば自分へも厳罰が下るだろう。葛藤の末、もとより義を重んじ武士の情けを重んじる彼はこの母子の依頼を快く引き受けることにした。十七歳になる下田の倅が関所で待ち受けると、約束通りその関所まで連れてきて自分はその場を離れる。入佐は熊本に帰れば死罪は免れぬと悟り、潔く下田の倅に斬られ仇討ちはなされた。運四郎は職務を放棄した事により御役を取り上げられるだろうと覚悟し、帰路の途中で大量に書物を買い謹慎の用意をしていたが、藩では彼の義心を評価し罪を問わなかった。

石原運四郎は家庭において大変子供を愛していたが、決して抱く事はしなかったという。「男子たるものいつ子を捨て親を捨て、身を天下国家のために捧げることになるか分からぬ。子供に懐かれ、後を追ってこられては迷惑だ。子供を可愛いとは思うがそのために抱く事はできぬ」と妻に言い聞かせていた。
また、ある人に向かって「家庭の事は全て妻にまかせ、むやみに叱咤せず十分憐れみをかけてやり、解らぬ事は言い聞かせ、足らぬところはこらえてやらねばならぬ」と語るなど、有事に臨む精神を日ごろから備えていたのである。


明治九年十月十八日、運四郎は自身が神官を務める宇土の西岡神社で祭事を行った。一党の決起は二十四日であり直前の催しであったが、祭は例年と同じく盛大に行われた。そして早々に片付け祠掌に後事を託し、内尾仙太郎、伊藤健、坂本重季、友田栄記らと共に二十一日西岡を発つ。富永守国宅を訪れそのまま秋月へ赴き同志を伴って二十四日の夕方帰国。自宅へ戻り神前に神酒を捧げ祈念し、妻と母を呼んで挙兵の事を打ち明ける。そして別れの盃を交わし、羽織袴に大小を携え出て行くのであった。

石原運四郎は陸軍参謀長・高島茂徳中佐襲撃隊を率いて、藤崎宮を発し親友阿部景器宅にて高津運記隊と合流し、共に種田・高島の屋敷に向おうとしたが、高島襲撃隊の人数が揃わず、やむなく種田襲撃隊は先に発することにした。太田黒、加屋の領袖は木庭保久をやりこの部隊へ加えた。一隊は急ぎ高津らを追うが、高津らは既に種田少将の首を下げて戻ってくるところだった。高津隊はこれより向かわんとしている運四郎らの応援をせんと共に高島邸へ向かうのであった。
高津、木庭らが屋敷を囲み、水野貞雄、森下照義ら若い志士達が正面玄関より踏み込む。運四郎は内外それぞれに指示を出し、「国賊天誅を受けよ」と発しながら高島の捜索に当たる。驚いた高島は庭に飛び出し、一隊は皆これを追う。その時高島は足を滑らせ泉水に転落。水野がその首を挙げた。
首尾を果した一隊は鎮西小隊と戦闘し、小銃や提灯、馬等を分捕り「愉快愉快」と叫びながら同志愛敬宅へと引き揚げるが、ここには歩兵営の戦いで重傷を負った同志が次々と運ばれていた。一隊は歩兵営の苦戦を知り急ぎ応援に向かったが、歩兵営に到着した時にはすでに営内は弾丸の雨と化しており、踏み入ることが出来なかった。この戦いで太田黒伴雄、加屋霽堅が死亡。一党はやむなく散々に退却することとなる。
各々が藤崎宮に集まったのは午前二時の事だった。運四郎は持っていた御軍神の下に今後の事について宇気比を行い、それが「再度営中に斬り込むべし」と出る。だが二十歳以下の若者達はむざむざ殺す訳にはいかず、家で機を待つよう説得する。若者達を帰らせた後、城下へ斬り入ろうと近づくが、何時まで待っても城への警戒は解けずやむなく斬り入りを断念せざるを得なかった。

その後、残った参謀らは今後の進退をいかにすべきか様々に議論を交わすが、まとまらず。この際再び営内に斬り込み、城を枕に討ち死にせんという意見も出たが、運四郎は一度退き島原に出て秋月や萩の同志と連携を謀り再挙に備えようと主張。これに多数の賛成があり決定となる。その後、再挙にそなえ一旦解散となり阿部景器と共に家へ帰る。
自宅へ戻った運四郎は「大失敗をやった」と笑って妻に事の次第を告げた。そして妻に髪を結い直させ、一子醜男への形見だと言って腰に帯びていた一刀を渡すのであった。「自分はこれから阿部と相談し、佐賀に赴いて同志を募り再挙を図る。もし無事に佐賀まで行く事が出来れば必ず書面にて報告する。が、これが不可能であるならば敵の虜となる前に自刃する」そう言って短刀を懐に入れ、再び家を後にした。
阿部の妻以幾子はしきりに船出の機を伺っていたが、警戒厳しく事をなせそうにない。そうしている内に石原家に家捜しの一隊が押し寄せてきた。士官は石原家捜索の際、祖母に抱かれている三歳の醜男を見て「この子は石原運四郎の子か、可哀相に。父さんはこんな子を残して戦に出たか」と言い頭を撫でたという。

二人は捜索隊が石原家に及んだことを知ると、阿部宅に来るのは時間の問題、もはやこれまでと自刃に臨むのであった。阿部景器、石原運四郎、阿部の妻以幾子の三人は一室にて対座。二人がまず腹を掻き切り、喉を突く。それを見届けた後以幾子も己が喉を突いた。
阿部の母は以幾子まで自刃するとは思いもよらず、驚いて部屋の戸を開け入ってきた。この惨状を目にした老母に運四郎は「顔色の変わつとりますか?」と問うと、老母は平静を取り戻し「変わっておりませぬ」と返答した。運四郎はそれを聞きにっこり笑って静かに事切れたという。





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