■加屋霽堅(かやはるかた)■
党中の領袖にして名望実に太田黒伴雄に次ぐと言われる。 文武共精通し、彼の持する厳格にして方正胆気、また熱意を持って望む様は見る人皆恐れ敬うものだった。逢う人皆道を譲り霽堅が訪れる時は皆襟を正すと言われる程で、君を思い国を憂う情に篤く、談皇室に及べば必ず悲憤し涙を流し語るのだった。 平生他に趣味は無く、和歌を詠じ詩を作る事を楽しみとし、毎日各所の神社へ参拝しては国運の長久と外夷が恐れひれ伏す事を祈り一日も怠ることはなかった。 加屋霽堅は初め楯列(たてつら)と名乗り、後に神功皇后御陵の文字を悟り楯行と改める。通称は栄太といい、晩年になって霽堅と改名する。 熊本藩士加屋熊助の長男として生まれたが、16歳の時父熊助はとある事件に連座し自刃。霽堅には妹弟が居た。子供三人共にまだ幼かった為、父を失って家名断絶は免れなかったのである。一家は母の実家である中村家を頼り茅葺の家をその屋敷内に建て、極めて貧困の生活を営んでいた。そして弟四郎と貧困の中にありながら志を立て行いを磨き身を文武に委ね誓って祖先の跡を回復せんと務めるのであった。 国老であった溝口蔵人はその窮を憐れみ霽堅を養って食客とした。これにより彼はますます刻苦勉励し和漢古今の書を読み和歌を詠じ詩を賦し文を属し、且つ武技にも磨きをかけ二刀流剣術(四天流)を修めるのであった。その後片山氏の門人となって漢文を修め、林桜園に就いて神道を学び深くその節に傾倒し、そこで太田黒伴雄、河上彦斎、上野堅五らと交わる。 萬延元年藩命により初めて家名を再興し小臣の列に加わる。 文久二年藩主の庶弟長岡護美を率いて京へ至り禁裏を守護するにあたり霽堅もまた、宮部鼎蔵、轟武兵衛、山田十郎らと共に随行し初めて諸公卿の間に出入りし天下の有志の士と交わる。翌三年朝廷親兵を諸藩に召すにあたり、霽堅またそれに選ばれ、その後学習院の録事になる。 元治元年、禁門の変起こり弟四郎は長州藩へ赴き七月長軍に加わって天王山にて自決。霽堅は丁度この頃、故あって弟と別れその年10月に藩へ戻るや否や禁固四箇年を命ぜられる。 明治元年二月藩命により青木弘と事情探索に長崎へ。兵庫開港にあたって、霽堅は同志と共に開港不可なるを切論し建白書をしたため長崎総督へ提出したが聞き入られず。鬱悶としている所へ帰され藩の軍備局へ出仕するのだった。その年9月再び京都へ上がり時勢の変遷を観察し大いに嘆き、何とかせんと霽堅は各藩有志の間に奔走。だが元治二年五月になって母が重病との報せが入り、孝行者であった彼は即日帰途に就く。 その後、藩庁の録事となり神事局及び学校局に兼務するものの彼の志は一書記官では収まらず。常に精神を国家の安危に注ぎその誠意は自ら詩歌の内に現われる。彼の著作とされる「撥反雑記(五冊)」と「投筆余編(二冊)」はこの頃著するもので、天下の情勢を見てこれらを編集したと言われている。 明治三年、河上彦斎らの獄が起こると霽堅もまた嫌疑を以って投獄される。 いよいよ獄へ向かわんとする日、吟じた詩。 七重八重かかる縄目の恥よりも まこととならぬ世をなげくかな その獄中にあっても、毎朝早く起きて正座し第一に天神地祇を拝して国利民福を祈り、他の囚人と議論を交えこれを一日も怠る事はなかった。また退屈な余り歌を詠じ詩を賦し(その歌集を籠鴬吟と名づけ詩集を後洞集と名づる)その威儀の厳正さと気迫の鋭さは、囚人獄吏を嘆賞せしめるのであった。 冤が解けて還されると憂国の念はますます高まり、専ら神事を修め、国運の無窮を図ろうとする。明治七年六月、安岡県令敬神党の志士を善用しようとして、斎藤、富永、石原等を各所の神職とし、霽堅も錦山神社の神官に命じ木庭保久等を祠掌とした。 翌年五月臨時祭を行ない丹精凝らして祷祀し、祝詞を読む。 (此の祝詞は同志の誠の行いを全て打ち明けて神明に報告するもの) 掛巻モ畏キ我大神ノ大前ニ謹ミ敬ヒ恐ミ白サク、八十日日ハ有レドモ明ニ治レル八年ト云フ歳ノ五月ノ十日アマリ八日ト云フ日ヲ生日ノ足日ノ吉日ト祝ヒ定メテ臨時祭奉仕トシテ、常モ斎キ奉ル加屋霽堅木庭保久、夜ハ六夜、日ハ七日、伊豆ノ真屋ニ伊豆閉黒盆シ祝マハリ清マハリ今日ノ朝日ノ豊栄登ニ獻幣帛ハ明妙照妙ニ仕奉リ御膳ハ洗ヘル和稲ヲ平賀ノ彌盛ニ供ヘ御酒ハ無濁真清ノ酒ヲ甕上高知甕腹満雙ヘ、大野ノ原ニ生物ハ甘菜辛菜青海原ニ住物ハ鰭ノ廣物鰭ノ狭物沖津藻菜ニ至ル種々ノ物ヲ如横山置足ハシテ奉る宇豆の幣帛ヲ平ケク安ケク聞食テ天照座皇大御神ノ大朝廷ヲ奉始三種ノ神寶ハ更ニモ不言天社国社ト稱言竟奉ル皇神等及国々島々所々ノ大小社ニ鎮座坐皇神等枝宮枝社ノ神等ニ至マデ伊須呂許比阿禮毘賜ハズ。相宇豆奈比御霊助テ天津日嗣ノ大御世ハ皇大御神ノ掟テ賜ヒ、定メ賜ヒシ大御勅ノ随ニ無違事無、天壤ノ共堅磐ニ常磐ニ無窮斎ヒ奉リ守奉リ皇御稜威ハ皇大御神ノ見霽カシ坐ルガ如ク、四方八方ノ外国ニ輝グ計リ、伊行亘ヲシメ賜ヒテ谷蟆ノ狭渡極ミ鹽沫ノ留ル限リ、伏従ヒ奉ラシメ賜ヒテ大御意平ケク大御體穏ニ高御座ニ大座坐シメ賜ヒ諸王等ヲ始テ百官人ヲハ明キ清キ直キ正キ真心以テ功勲敷大御政事ヲ穴ナヒ輪ケシメ賜ヒ、荒ヒ疎ヒ来ム禍神ノ下ヨリ行カバ下ヲ防ギ上由行ハ上ヲ護リテ禍事ニ相率リ相口合ヒ賜フ事無ク、不言挙国風正シク令有賜ヒ、此火国内預リ知シ、細川朝臣等彌雄々敷赤キ心ヲ皇邊ニ極メ盡サシテ賜ヒテ、皇神ノ御心ノ随ニ事不過モ八桑枝ノ如ク立栄令奉仕賜ヒ、如此奉仕神官等我同志ノ朋友ノ公民ト有ム人ハ老モ若モ力ヲ合セ心ヲ一ニシテ遠モ近モ神ヲ敬ヒ国ヲ愛シミ己カ乖々不令在能ク神習シメ賜ヒテ国作固メシ如ク、太キ功業ヲ令立賜ヒ蟹カ行邪教陰謀ハ風ノ雲ヲ散スガ如ク、雨ノ塵ヲ洗フガ如ク無餘波消亡シメ賜ヒテ鳥羽玉ノ黒髪ノ乱ルル事無ク腰ニ取佩剣太刀ノ廃ル事無ク惟神ナル道ニ彌勤ニ勤シメ賜ヒテ漏脱事行来ルニ咎過在ヲハ、神直日大直日ニ見直シ聞直シ、座テ、夜ノ守晝ノ守ニ守賜恵賜ヒテ恩頼ヲ幸賜ヘト牡鹿成膝折伏セ鵜事物頸根突抜テ畏ミ畏ミモ稱言竟奉クト白ス、言別テ申サク祠掌等鼓打テ、久米舞成シ剣抜持テ立舞ル雄々敷手振ヲ賢供テ神歓喜咲楽ニ、歓喜咲楽キ賜ヘト畏ミ畏ミ白ス、 その後明治政府によって廃刀令が下ると憤慨して神官を辞職。 そして日本刀を賛美する数千言にのぼる名奏議文を呈するのであった(これが後の廃刀奏議書) この時同志達は憤慨止まず兵を挙げようとしていたが、彼は挙兵には賛成せず自ら奏議書を携えて上京し、これを元老院に捧ようとし用いれられない様ならば屠腹して死諫する事を望んでいた。敬神党にとって霽堅は党中の領袖であり、その膽勇その学問、その熱誠謹厚、同志が挙げて推重するところであった。霽堅が挙兵に賛じなければ一党の士気に影響する為、敬神党幹部達は交わるがわる彼を説いた。 そしてついに浦楯記に宇気比をさせ、その結果「断行すべし」と出たので、ここで初めて挙兵に賛成することとなった。 加屋霽堅はこの頃四十一歳、妻は二十八歳。子供は二男二女。 子供好きな霽堅は我子を深く愛し、二女などは母よりも父に懐く程だった。挙兵の前夜、燭を灯し愛らしい子の寝顔を見、ひそかに別れを告げる彼の姿があった。 十月二十四日、家族に対して何も語る事なく、紋付羽織に袴を付けて正に家を出て行こうとしたところ、丁度妻の父と出くわす。彼は丁寧に挨拶した後、「同志の愛敬宅で集会があるので今晩は帰れぬかも知れませぬ」と言い出て行った。義父は怪しんで家の中を調べると数多所蔵している刀剣は何時の間にか全て持ち出されており愛蔵する腹巻も取り出されてあった。 その夜、各方面に火災起こり銃声砲声鳴り轟き初めて初めて、家族は敬神党の決起および霽堅の加盟を知る。翌日義父は新開大神宮を訪ね、安全を祈祷するもいまだに消息はつかめなかった。その後、将校警官兵士一隊が家宅捜索に来て、霽堅の行方を捜し問うが、家族も行方を知らない。決起から四日後、霽堅の遺体を営内の新坂にて発見との報が入り従兄が受け取り向かった。遺体は酷い傷を負っており身には羽織を着けず神前に供えていた白旗で作った“たすき”を十字に掛けていたと言う。 決起の晩霽堅は砲兵営に斬り入り、更に太田黒伴雄と共に歩兵営に向かい両刀引っさげて奮闘し敵を倒していたが無残にも飛弾を腹に受け、『弓矢八幡!』と叫びつつ斃れそのまま起き上がることはなかった。 最期まで刀を執ったままに壮烈の戦死を遂げたのだった。 <逸話> ・三島由紀夫の著書「奔馬」は霽堅の詩がカバー表紙を飾っている。 また三島氏は1969年、ロンドンタイムズに神風連の事を紹介。その傾倒ぶりが伺える。思えば市谷駐屯地での彼の悲痛な叫びと最期は、確かに神風連と重なるものがある。 ※作品中で「昭和の神風連」を志し自衛隊に入隊する若者を描いている。 |