■背景・関連人物■
-----------------------------------------------------------------------幕末基礎
▼長州藩への経緯
関が原の戦い以来、安芸(広島;芸州)を追放され、中国八カ国百十二万石の
大大名から、防長二カ国三十六万九千石に転落て、本州西の端に押し込めら
れた長州藩は至極深刻な財政難に苦しめられる事になる。 代々の藩主は財
政建て直しを図ろうとするが、一向に好転せず、赤字財政はますます酷いもの
になっていった。
そして天保年間、十三代・敬親の時、村田清風という能吏を起用。厳しい中で
の改革案が実施されていった。当然、この改革は藩民にとって厳しい耐乏生活
を強いるものであった。農民は農産物の増産に追い立てられ、武士は俸禄を削
られた為、下級武士と呼ばれる者たちは、田畑を作り農業営み、自給自作の生
活を余儀なくされるのであった。この長州藩民を襲い続けた貧苦の生活こそが
、彼等を変革へと駆り立てる一種の要因となっていくのである。
▼下級藩士杉家の場合・・・
藩の財政は苦しく、家臣たちへの禄は半減された。
下級藩士である杉家は武士身分でありながら、農民と変わらぬ生活を続け、
自給自足をして飢えを凌ぐという逆境の生活を強いられていた。
当然少年だった大次郎も農業を手伝い、働きながら学問に励むのであった。
普通の農民と違い、田畑は杉家の子等にとって教場にもなっていた。杉家は
貧苦の中で、親子兄弟姉妹のほか、叔父たちも生活を共にするという大所帯で
あった。こうした家族が力をあわせ生き抜こうとする生活により杉家の人々は互
いを思い情深くなっていくのである。やがて、国事犯として非難と誤解の中にあ
った時、杉の家族達は、己の信念に従って行動した松陰を、誇りを持って保護
し激励している。
▼脱藩の罪
藩士はけいこ切手という外出許可証をもらってはじめて他藩などに出かけること
が出来る。証書は1ヶ月毎に更新しなければならず、期限を過ぎたものに関して
は”揚がり切手”といい無効となるのである。そんな無効となった揚がり切手を持
ち他国へ外出するとこれが脱藩(国抜け)とみなされるのである。脱藩の罪は非
常に重く、軽くても藩士の資格を取り上げられてしまい、浪人身分となるのである
。通常藩士が脱藩すると、すぐさま追っ手が仕向けられ、強制的に国に戻され刑
罰を与えられる。松陰の場合、友人・来原良蔵らが上役を説得してなんとか追っ
てを出す事をやめさせたのだが、藩邸に大きな波紋を投げかける事件となった。
-----------------------------------------------------------------------勤皇志士との交友
▼宮部鼎蔵(みやべていぞう)
江戸の蒼龍軒という私塾に出入りする多く同志の中で、大次郎(松陰)が最も親
しくあったのがこの宮部であった。「宮部は毅然たる武士、僕常にもって及ばずと
為す」と、大次郎は宮部を高く評価していた。宮部は大次郎より十歳も年上だっ
たので、彼を宮部先生と敬称つけて呼ぶが、二人は親友としての交わりを深め
た。 大次郎は江戸へ出た年の6月、宮部と共に相模の沿岸に十日間の旅をし
ている。外国船警備の為に築かれた三浦半島の砲台を見て回るという兵学者と
しての研究旅行である。この度で、幕府による海防策の現状を見た二人は、北
方にも眼を向ける事になるのだ。宮部は大次郎が江戸伝馬町で刑死した5年後
、京都池田屋で新撰組と対峙し負傷し、自刃した。
▼梅田雲浜(うめだうんびん)
若狭藩士。儒者にして尊王攘夷の志士。将軍継嗣問題と条約調印をめぐって幕
府を批判し、捕らえたれて取調べ中、病死。松陰は尊大な態度を取る雲浜を嫌い
、親交を結んだわけではなかったが、幽囚中の自分を見舞ってくれた事には感謝
し、松下村塾の揮毫(きごう)を頼んだりして、敬意を表している。しかし、雲浜が尋
ねてきたことが、のちに雲浜と松陰との謀議ありと幕府側に疑われるのである。
また、久坂・大楽らも雲浜との交流深く彼を”先生”と敬う姿勢を持っていた。
▼富永有隣(とみながゆうりん)
有隣釈放を藩は認めたが、彼の家族が反対をするので、かなり手こずった。人に
嫌われる有隣の行状をおそれて、借牢願いを下げようとしない家族を説得し、安
政4年7月25日に松陰はやっと出獄を成功させた。 松陰死後、周防に帰って、
一時は活躍の場を与えられ、幕軍との戦いにも参加したが、明治以降は新政府
にも出仕することなく、不遇な生涯を終わっている。しかし、私塾をおこして子弟の
教育にも当たり、それなりの業績は残した。
▼周布政之助(すふまさのすけ)
天保改革の功労者。村田清風に才を認められ、昇進を重ね遂には重臣にのし上
がった。安政5年からおよそ5年間は周布が実権を振るう全盛期である。松陰に対
して、初めは好意的だったが、松陰が日米修好条約の締結に反対し徐々に幕政
批判を強め始めた頃から態度を硬化していった。松陰は中央の政局に対応する
藩の方向を度々示唆する上書を提出していた。自分の名を隠していたが、藩主
はそれが松陰のものだと知って、必ず手もとに届けるよう命じた。そんな事から、
周布はそれへの警戒心も抱くようになっていた。松陰死後、周布は松陰門下生
を支援するほどになるが、生前松陰にとっての彼は行動の前に立ちはだかる障
害とさえ見えていたに違いないだろう。
-----------------------------------------------------------------------松下村塾関連
▼中谷正亮(なかたにしょうすけ)
藩士の子で、嘉永6年、松陰と共に江戸遊学のときからの旧友。藩校明倫館の秀
才。安政2年杉家に幽閉中の松陰を訪ね、以後松陰に師事する様になった。この
時二十九歳、松陰より二歳年上だった。塾生となってからは、村塾の経営に協力
し、高杉晋作や久坂玄瑞を誘い入塾させている。松陰刑死の後は、桂小五郎・高
杉晋作・久坂玄瑞ら門下生らと共に、行動を共にしたが、文久2年、藩命により江
戸へ出て、急病死した。
▼吉田栄太郎(よしだえいたろう:利麿)
杉家の隣に住む足軽の子で、久保塾にいたことがある。
やがて、松下村塾の4天王と言われた秀才。8年後、京都池田屋事変で新撰組と
戦い討死。※池田屋事変の時、彼はなんとか長州藩邸に逃げ込み援軍を要請。
しかし藩邸側がこれを拒否した為、彼は再び池田屋へ戻り討ち死にをするのである。
▼山県小輔(やまがたこすけ:有朋)
足軽の子で、藩命による京探索より帰還後、久坂玄瑞の紹介で入塾。
実際、入塾したといっても、ほとんど塾生との交わりは無かったという。
逸話として、彼は子供の頃、侍の子と喧嘩をし川に投げ込んだ。その子の親から
「足軽の分際で」と講義を受けた彼の父が小輔を同じ様に川に放り投げ、詫びを
入れたことを彼は終生わすれなかった。彼は、幼い頃から身分制度に虐げられる
悔しさを味わってきたのである。
高杉晋作(たかすぎしんさく)
中谷が入塾させた中では身分の高い上士の子である。久坂玄瑞より一歳年上である。
痩せていて背丈は玄瑞の肩までしかない。天然痘を患い酷いアバタの浮いた馬面に、
切れ長の黒目を光らせているのが只者ではないと思わせた要因であるらしい。
明倫館へ通っているが、学術より剣術によく打ち込んでいたようだ。
松下村塾へきたのも中谷の強い勧めによるもので、半ば彼にとっては冷やかしに足を
運んだ程度であった。彼は漢詩に自信があるらしく、松陰初対面の折、17歳の時に作
った「立秋」と題する七言絶句を自慢げに見せた。松陰は「見事也」と称賛を加え、す
かさず「久坂玄瑞の意見もたたいてみなさい、そなたより一日の長というべきであろう」
と述べた。すると、晋作は「玄瑞が、でありますか」と露骨に不満気な表情になった。
実はこのやりとり松陰が晋作の才を伸ばしてやるのに競争心を掻き立てるのがよいと
判断してのことである。競争心を掻き立てられた晋作はここより塾へよく足を運び勉学
に励み、やがては久坂玄瑞と共に双璧をまで言わしめる人材になっていくのである。
▼伊藤俊輔(いとうしゅんすけ:博文)
来原良蔵の紹介で入塾。当時18歳。
伊藤は中原の子であり、身分的には高いものではなかった。
松陰は「伊藤は周旋家(政治家)になるだろう」と、評した。政治的手腕を持っていると
いう意味である。彼は村塾内での衝突毎があると進んで仲裁に入るなどの役をかって
いるようで、こういった日常の行動から、松陰は彼の資質を見抜くのである。この伊藤が
後の維新後、初代内閣総理大臣となった伊藤博文である。松陰は長所を褒める事に
よって自身を持たせ、才能を更に開花させるという教育方針をとったのである。
-----------------------------------------------------------------------思想
▼草莽
松陰は藩というものに見切りをつけたのである。頼みとするのは、幕藩体制の組織に縋
って生きている世禄の武士ではなく、在野にある草莽だけだ、というのである。幕府とい
う強大な権力を倒す為の力を初めは藩に期待した。しかし、封建組織から脱しきれない
藩に失望した後は、草莽・・・つまりは民衆の力にしかないと考える様に成るのである。
つまり、松陰自身が屈起する草莽となり、門下生達がその遺志を継ぎ、そして遂には松
陰高弟・高杉晋作が組織した”奇兵隊”こそが、屈起する草莽として討幕に威力を発揮した。
-----------------------------------------------------------------------継承
▼一燈銭申合せ(人物伝で詳しく紹介)
江戸から帰ってきた久坂玄瑞からの「松下村塾へ集まれ」という回状が門下生に伝えら
れたのは、文久元年十二月初めだった。塾自体は閉鎖されていたが、何かあった時の
集合場所としての場としては利用され続けていた。江戸にいる高杉晋作を除いて19名
が集まった。「ここで一燈銭申合せをしたい」玄瑞が口火を切った。一燈銭申合せとは、
「貧者の一燈」から取ったもので、各人わずかな私財を出し合い、資金として蓄積しよう
というものである。ここで同志の結束を固めておこうというのが玄瑞の狙いであった。もとも
と一燈銭申合せの計画は生前松陰が抱いていたもので、その意志を次ぐというものであ
る。大老井伊暗殺の後を受けて、江戸や京都の政情が急変し、主唱者の玄瑞をはじめ、
多くの門下生が萩を出て行ってしまった。結局、申合せに従って写本作りを最も熱心に
実行したのは中谷正亮と、山田彰義この二人だけであった。
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