久坂年譜(時代背景付き)へ

略年譜・S 久坂玄瑞(くさかげんずい)
天保11年
  (1840)
嘉永6年
  (1853)
5月、久坂家三男として誕生

明倫館へ入る。
この年母富子死す

生没年;天保11年(1840)−元治元年(1864)

出生:長門萩平安古八軒屋(家禄相続時:25石)

家族:父・良迪 母:富子 兄:玄機 妻:文

名称:秀三郎(幼名)、誠・義助(名)、実甫(字)、通武

変名:松野三平、河野三平

号:秋湖、江月斎

経歴:萩・藩医、西洋学所舎長、御盾隊結成、光明寺党結成

学問所:明倫館(藩校)、好生館、博習堂、鳩居堂、松下村塾

指南:吉松淳蔵、宮部鼎蔵、吉田松陰

爵位:贈正三位


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<説明>

萩平安古八軒屋に天保11年(1840年)、萩藩医・久坂良迪の

三男として誕生。幼名は、秀三郎。幼時、玄瑞は7歳の年、吉松

淳蔵の私塾に学び、高杉晋作や大楽源太郎も同門であった。

やがて、藩校・明倫館へ入学するも、14歳の年に母を、翌年

父兄を相次いで失い、幼くして家督を次ぐ事になる。この時、久坂

秀三郎から玄瑞へと改名している。



安政3年(1856)、松陰との書簡による問答の末、翌年ついに

松下村塾に入塾。この年、12月に松陰の妹・文と結婚。杉家に

同居するようになった。しかし、新しい家族との平穏は続かず安政

5年(1858)、義兄・松陰が江戸伝馬町で処刑されると、その遺志

を継ぐべく玄瑞は志士として活動を開始する。

長州藩の藩是・長井雅楽の航海遠略策と真向対決。雅楽を切腹に

追い込み、藩政を再び自身らの思想へと好転させる。同年、同門の

高杉晋作らと英国公使館の焼き討ちを決行し、攘夷論を印象付ける。

文久3年、下関で光明寺党を結成し、馬関(関門海峡)での攘夷戦を

実行。玄瑞は長州藩尊王攘夷派の先方となるのである。

京都での活動もいよいよ大詰めとなり、大和行幸を目論んでいた

矢先、同3年8月に起こった会津・薩摩による禁門の政変により、

長州藩は京からの撤退を余儀なくされた。

この後も、玄瑞は京都へ潜伏するなど密かに活動を続けたが、先の

政変に対する名誉回復を武力で訴えようとする急進派を抑えきれず、

長州軍を上京させてしまう。この京での陣中でも、玄瑞はなんとか和を

講ずる為、歎願書を提出するが、その甲斐なく元治元年7月19日、遂に

戦の火蓋は切られる事となる。玄瑞は、砲弾を掻い潜り鷹司卿邸宅へ

侵入し、卿に歎願するが拒絶され已む無くその邸内で同門たちと共に

自刃した。享年25歳であった。
安政4年
  (1857)

安政5年
  (1858)
6月、松下村塾へ入門
12月に松陰末妹・文と結婚

江戸にて松陰処刑

文久元年
  (1860)
12月、一燈銭申合を結ぶ
(久坂玄瑞・桂小五郎・
高杉晋作・大楽源太郎・
入江杉蔵・野村和作他・・・)
文久3年
  (1863)
5月、下関で光明寺党結成
    馬関戦争勃発
文久3年
  (1863)
8月、禁門の政変(8.18)
    この後も京へ潜伏
元治元年
  (1864)
6月、池田屋事変
(宮部鼎蔵・吉田栄太郎他討死)
元治元年
  (1864)
7月、蛤御門の変(7.19)

鷹司卿邸宅にて自刃。
      (享年25歳)