*人物伝*


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■生家「喜多村」の歴史 又兵衛の生家は喜多村家である。喜多村家は船木宰判、西高泊村(現在の小野田市)。その祖先を辿ると、源氏の嫡流であり、八幡氏の末裔で金谷修理大夫経氏から出ている。彼の庶子金谷太郎某が伊予に赴き其処の喜多村へ住まっていた事もあり姓を喜多村と改めたとも言い伝えられている。
三代目となった為光の代では足利家(室町幕府将軍)に従事し長く仕えたが、後に来る戦国時代には主家廃絶により流浪の徒となる。その一人であった宗左衛門は豊臣家に仕え数多の活躍により速見甲斐守組に任ぜられるも、元和元年(1615年)大阪の陣で徳川氏に破れ遂に城内にて討死(享年68歳)。彼の弟・正春が家督相続をし、喜多村家は何とか代を継承するに至るが、それからも羽州山形・豊後と各地転々とするのである。

彼等一族にとって武門にあって最後まで付き従う事となる長州藩・毛利綱広候の元へ入ったのは討死した宗左衛門より三代後の事となったのである。この後毛利家では無給通(長州士卒の一)に任ぜられ、その俸禄は三十七石五斗であった。この頃に高泊へ移住している。毛利家へ従事を始めた喜多村正興・・・その四代裔・正倫が第二子こそ後の来島又兵衛なのである。

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■来島家の流れ 来島家は彼等の系図によると宇多天皇親王の裔孫で、尼子経久の男森淡路守親久の末孫と伝えられている。親久は出雲来島城を拠点としていた{島根県来島村)。一時彼等は近江国犬上郡尼子荘へ移住していた為、姓を尼子と名乗っていた。この後尼子一族は勢力を拡大。遂には出雲の大半を制する様にまでなった。
その後、隠岐・安芸・備後など他領への侵入により辺りは混乱極めた。この侵入による諸豪降伏が続出。大内氏の勢力を東漸したものの、毛利元就が尼子氏から絶縁し敵対する大内氏へ属した為かつての雄図は傾き衰運に乗じて同族間での争いが絶えなくなった。その為ある一族は滅亡し、ある一族は分散し、遂にその一派である守淡路守親久は毛利氏へ帰順することと成った。毛利家へ従事するに当たり、森の姓は毛利の音に似ている事からかつて出雲の居城であった来島城にちなんで来島氏を名乗る事と成ったのである。

親久は毛利幕下へ入ったとはいえ、遠慮の気持ちから隠居を申し出変わりに嫡子等に仕官を継続させた。天文9年(1540年)元同族の尼子晴久が毛利元就居城・吉田郡郡山城を攻め寄せると長子・元久は18歳の若さで出陣。同族との苦しい戦いの末、遂に戦死してしまうのである。元就は同族との合戦に臨み討死した若い彼を痛く哀れんで、その弟・又六を継がしめて名を就親と賜った。それからの就親は勲功を重ね、石の加増や屋敷を賜るなど毛利家の台頭に大いに尽力した事が窺える。ただ、この後彼は輝元の代で備中高松攻略の際、切腹をし果てている。それからも代々毛利に忠誠を持ち従うのだが、関が原の合戦で輝元以下西軍の敗戦により中国地方八カ国から防長二カ国へ勢力を削がれた為、既に家督を嫡子秀就へ継承していたが善後策の為対処せざる終えなかった。前途は多事多難と毛利輝元の苦難心痛は察するに余るものであった。
その後の長州藩情勢は幕末期へと繋がる通りである。

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■生い立ちと幼少 来島又兵衛政久は文化4年(1817年)正月八日、長門国船木宰判西高泊村・喜多村正倫の次男として誕生、幼名を亀之進と名づけられた。亀之進は事有る毎に近所の幼童を引き連れてほら貝を吹き陣太鼓を打ち鳴らして戦さながらの竹槍遊びに没頭し、日々野山駆け回る正にガキ大将そのものであった。生来正義を愛する性情は次第に頭をもたげ父親も将来を望んで殊の外心を傾け慈しんだ様だ。やがて国の鎖国政策が西欧諸国により綻び始めると、彼の父親は我子を馬術剣術学問などを学ばせんと、萩にあった馬術師範家樽崎四郎兵衛に依頼し内弟子として彼を見送った。亀之進はこの修行を大いに喜んで、寝食の間を惜しんでひたすらに己を鍛える事に没頭した為、生来の才気も手伝ってか見る見る内に武芸学術を極め喜多村家の他兄弟を凌ぐ様になっていった。これに師・四郎兵衛は惚れこみ養子として希望するも、後実子が誕生した為亀之進は再び喜多村家へと復帰するのであった。

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■青年期の一騒動 喜多村家へ復帰した亀之進は名を光次郎と改名している。
此処での彼は一層武芸に没頭していった。ある逸話によると、月明の堤に立って一人月影を刺す工夫に余念が無い彼の姿をしばしば見かけたという古老の伝聞がある。当時の光次郎の厳しい武芸工夫の趣も偲ばれるものである。

丁度この頃、光次郎には一つの養子縁組話が持ち上がっていた。先に述べた来島家である。来島家は長門・美祢厚保など一族は転々としており、彼を望んだのは実子を持たなかった長門来島家である。其処の当主・来島又兵衛政常はなかなか子に恵まれなかった為、兼ねてより近親の間に然るべき者を臨んでいた。お家を再興するに当たってまず彼は美祢厚保村にあって酒造を営んでいた来島清三郎が長女・おたけを懇望し、これを養女と向かえ自家血統を継承させた。その後、文武鬼才と評判の青年・光次郎を喜多村家より迎え入れ彼に娘となったおたけを配した。

来島又兵衛嗣子無之付喜多村佐治馬次男光次郎婿養子之事
相伺候処、如願可被仰付旨候条此段可被申渡候恐惺謹言 
天保七年八月二八日
この様な奉書(養子縁組の許可)を賜った時、光次郎は20歳であった。

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■新居と武者修行 翌年、光次郎夫妻は妻・おたけの生家・来島清三郎の斡旋で西厚保村の清三郎邸横へ居を移転しここに新妻との新居を構えている。当時光次郎の武芸に関する伝説めいた逸話は非常に多いが、何を思い彼がこの厚保へ移り住んだのかは全く不明といえる。養父・政常は手習い師範をして数百もの弟子を抱えていた為、西厚保村へは養子夫婦だけが移り新居を営んだと考えられる。
妻方の実父・清三郎は掌中の玉と慈しんだ総領娘とその婿を手元に置いて朝夕その顔を見たいという人情故の移転斡旋であったのだろう。
光次郎が厚保へ移り住んでから、江戸在番を命ぜられるまでの凡そ十年間は彼にとって本格的に武芸に打ち込める時期であったと言える。

当時長州藩内で盛んだった武芸はあくまで形を重んじるものが主流であり、その殆どは実践向きのものでは決して無かったと言う。時代の流れに沿ってそれらを実践向けに改良改善する事はなく従来通り技のみを売る旧法を守るものであった。
この風潮を何とか改善しようと光次郎は天保11年長州藩で初めて試合法の採用を訴え出た。彼の説得は当時藩内で鋭意藩政改革を目指していた村田清風の賛同、この訴えは藩論を動かすこととなり遂に実質ある武芸学術精励の風習を培ったのである。
この年、他藩剣術修行の者に訓令するの文を発せられたのもこの為である。光次郎自身も試合を主とし、諸藩に抜きん出ていた筑後柳生藩士・大石進等の門を叩いて神陰流剣術を修行するのであった。彼は藩主の許可を得てしばしば自費を以って筑後等へ修行に出ている。

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■藩の変化 来島又兵衛ら藩士だけではなく、藩主敬親までもが自ら修行の門を叩き勉学に精励するほど、藩内はかつての旧法主義ではなく実質主義へと変貌していった。
この様な一藩挙げての進取敢為の風潮が湧き上がってきたのは、一つには村田清風の積極的改革方針の成功を物語るが、その政策の間にあって光次郎が士風を鼓舞した功績も無視できないものである。
光次郎遊学中、天保13年11月、藩から依頼状が出されている。

一筆啓達致し候。向寒の節に御座候処、各様いよいよ以って御堅固珍重の御事に御座候、然ればこの御方御家来来剣槍修行の為先達て以来追々その御地へ罷り出で候処、御懇に御引き立て下され候由、御深切の義忝けなく存じ奉る次第に御座候、当節は別紙名前の面々罷り越しおり、孰れも未熟な者どもに御座候えば、且々成り立ち候やう、御助情無し下されたく願い奉り候、右貴意を得べき為此如くに御座候、恐惶謹言。  十一月晦日

この書には高洲勝五郎・佐世微之助・来島光次郎他数名の連盟がされている。
この様にして、光次郎は柳川藩大石進の道場に於いて修行をする事数年、馬術・剣術・槍術を併せ研鑽し、蛍雪の功成って免許皆伝を許されるのであった。

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■厚保村道場 免許皆伝を受けた後、光次郎は郷里厚保村へ戻り、門長屋の2階を道場として使用し近郷在住の諸士を集めて武術指導に励むのである。2階座敷で長柄の槍を自由自在につかいこなしたと言われる程であるから、藩内での彼の槍捌きは抜群のものであったと推定される。一方、砲術や馬術も達者でかつて俵山の家には8頭もの馬を養っていたようである。やがて、外艦来航の急報が入ると武芸の必要性が急なるを見て、彼は更に道場の規模を拡大、剣術のみならず柔術もそれに加え門下生の育成に尽力するのであった。
殊に軍馬の必要性を多方面に力説し郷から集めて検査を行い馬匹の改善畜産の奨励にも力を惜しまなかった。天保14年4月1日、長藩は羽賀台の大調練を行った。これは村田清風の建議によって、萩の羽賀台に藩士籍に列するもの1万4千人を動員して、諸兵の演兵と閲兵を行った画期的大操練であった、その時英傑たる清風の知遇を得た青年光次郎がその颯爽たる勇姿を鮮烈に現し馬上豊かに水際立った武者ぶりを示したものであろうことに変わりなかった。
更に剣術練磨の為、明倫館教授平岡弥三兵衛越智の門下へ入り、弘化2年5月、遂に新陰流兵法の免許皆伝をも授かるのである。

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■江戸出府 この頃の光次郎の武術は既に円熟の境地にあり武将としての貫禄は長州藩内でも際立っていた。光次郎が遂に江戸に出たかは不明だが、おそらく八組士の子弟として江戸在番に当たったのであろう。弘化3年(1846)8月には所勤の傍ら久保道場に通う事を願い出て、以来久保田助四郎に付いて更に剣術を学んでいる。
翌年4月、光次郎31歳の年志道伊織・大庭源之助・坪井隼太等と共に江戸藩邸の稽古場諸事御用掛を命ぜられ稽古道具管理に当たっている。
この様に、光次郎の武芸は高く評価され武を司る役目を取り仕切る地位にあったことがわかる。また同月19日、数名の同志らと東叡山火の御番に出勤した際は、その先頭を勤めるように命ぜられている。
東叡山は上野にある将軍家の廟所であり大名が交代でそれぞれ分担箇所を定めて巡視と消防の任に当たったのであった。光次郎らは二番交代の勤務で足軽数名を引率し自身は騎馬に跨り出向いていった。拝命中は昼夜問わず常時火事装束に身を固め、各々担当する部署を巡回せねばならなかった。
在勤満1年、無事その任を果たして嘉永元年(1848)4月20日交代罷免に際し褒章として銀子10枚を手渡された。

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■光次郎改名 当初稽古場御用掛に任ぜられた彼が武芸興隆の意味から藩命を帯び剣客を物色するに当たって、「侠気以って名あり、広く俊傑の士に交わり、国土の風あり」の幕末三剣客の一人であった斎藤弥九郎と肝胆あい照らしたのも極めて自然と言える。斎藤の塾風や人柄に敬服した彼は「その技・千葉、桃井に及ばずと言えども方今要する所は彼に非ずして人にあり」とよくそれを看破して斎藤氏を推薦したのであった。これによって斎藤弥九郎羽藩邸出入りを許され多くの藩士も斎藤道場へ入門するのであった。また、弥九郎の男・新太郎が萩を訪れ交歓の為に戦わせるなど彼との交流は光次郎{又兵衛)戦死の年元治元年まで続けられた。光次郎の郷里である西厚保村にも数度来訪し、彼の為に厚保村の郷社神功皇后社に後の又兵衛の為に奉納文を納めているが、この額は非常に鄭重な細工が施されている。この二人の交流は防長が維新に向け士気を培う根源であったと考えても過言ではないだろう。後、斎藤道場には維新三傑の一人である桂小五郎(木戸孝允)も自費遊学として江戸へ上がりここで学んでいる。

光次郎は江戸に勤務する事3年、嘉永2年、一旦国に帰ったが翌年再び江戸へ行くよう命ぜられ急行するもその年10月25日に養父・来島又兵衛政常が61歳で病死する。光次郎は直ちに帰国の途につき、翌4年正月に来島家を継いだ。
この時彼は既に35歳。同年、組替が行われ粟屋若狭組から清水清太郎組へ移された。
翌5年7月28日、光次郎は又兵衛と改名し、政久と名乗るのである。又兵衛は来島家累代の通称である。

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