◆詩稿 |
▼出郷 男子蓬桑の志、飄然として覇城を出づ。 雲烟三月よろし、書劍九州の行。 月落ちて林花暗く、鞭風馬聲を結ぶ。 江山、眼裡に吟じ、随所予に評を託す。 <解説> |
父・兄の四周忌を終えた玄瑞は3月、九州へ遊学している。 その時に作られた長短様々な詩作36首が「西遊稿」として残されている。 彼はこの旅で、詩才をより向上させようという目的が垣間見える。 多くの知人による推薦書を受け、旅したこの地は、彼の生涯で最初の 大きな分岐点であったと言える。 |
------------------------------------------------------------------ ▼七律 |
来り訪づる熊城奇士の庵、海防の大義ついに如何。 廟堂あに寡なからんや秦檜、草莽更に存す林則徐。 旌旆いたづらに連りて吾が備え弛み、瀾壽忽ち起りて米夷虚をうかがう。 藤公(清正)の廟まさに遠きに非ず、請うて見ん當年の威武をのべよと。 <解説> |
久坂は九州遊学で、肥後勤皇党志士・宮部鼎蔵を訪ねている。 宮部は山鹿流兵学師範で、36歳。江戸遊学中に吉田松陰と知己となり その才を激賞し、彼への入門を勧めている。 その訪問時に詠んだのが、七律二首であり、上記はその内の一首である。 |
------------------------------------------------------------------ ▼自警六則 |
明かに苟偸の愧づべきを見、審に節義の尊ぶべきを見よ。而して苟温偸飽すること 日又一日ならば、終に席蓐の上に老死し、寸義尺節あることなけん。これ粘滞に座し、 勇断乏しきのみ。 |
旦に夕を圖らず、日に月を謀らず、茫乎として向かう所を知るなきは、 これ大いにはづべき也。 |
今我にして沒するも、なお一好人たるを失わず。然れども今これ生くる也、 袖手高拱するは、只朋友・士夫の間に愧づべきのみならず、 天地萬世、我はた如何せん。 |
吾が性軟弱、胸狭く膽小、深く看みるに為すあるに足らざる者。 然れども自棄して以って為すに足らずとなして敢て為さざるは、 即ち為すあるに足らざらんと思うなり。 |
頃者、士大夫の挙止を観じ、大いに唾し、而してこれを罵れり。 然れども我もまた因循に安んぜば、即ち他人より之れを観ば均しくこれのみ、 亦すこぶる愧づべき也。 |
再延年、剣を按じて、霍光、功を遂げたり。 張良椎秤を華にし、晋氏、志を決す。 我敢為に乏しく、常にその按劍椎秤の無きものを恨むのみ。 巳未五月、暮、梶Xとして書す。 <解説> |
これは、敬師・松陰と談じ、玄瑞が自身のあり方を戒め奮い立たせる為に 詠んだ所謂自戒である。この時玄瑞は若干19歳。 彼が志士として志を持ち、世を憂う気持ちと自身の境遇への焦燥が 感じられる詩である。 |
▼日下部翁の墓にて(日下部氏は安政5年獄中にて病没) |
香を千世に留めぬるとも武士の、あだなる花の跡ぞ悲しき。 --------------------------------------------------------------- |
▼御楯武士 壬戌三月 江月斎主人戯作 |
一つとや、低き身なれど武士は、皇御軍の御楯じゃな、これ、御楯じゃな。 二つとや、富士の御山の崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。 三つとや、御馬の口を取り直し、錦の御旗ひらめかせ、これ、ひらめかせ。 四つとや、世の良し悪しはともかくも、誠の道を踏むが良い、踏むが良い。 五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅のままに随わん、なに、そむくべき。 六つとや、無理な事では無いかいな、生きて死ぬるを嫌うとは、これ、嫌うとは。 七つとや、なんでも死ねる程なれば、たぶれ奴らば打倒せ、これ、打倒せ。 八つとや、八咫の烏も皇の、御軍の先をするじゃもの、なに、をとるべき。 九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功をたてよかし、これ、おくれるな。 十とや、遠つ神代の国ぶりに、取って返せよ御楯武士、これ、御楯武士。 <解説> 文久2年頃、久坂は「御楯武士」という数え歌を作った。 彼の今までの作風からすると、珍しい形の詩歌と思う。 この詩歌は何れ、尊攘を謳う志士達に広まり、愛誦され、その鉄腸を 嫌が上にも鼓舞した事であろう。 |
----------------------------------------------------------- ▼和歌・俗謡も志士らしく・・・ |
龍田川 無理に渡れば 紅葉が散るし 渡らにゃ聞かれぬ 鹿の声 |
秋深み 男鹿の角の 束の間も 千々に砕くる 我思ひかな ほととぎす 血に啼く声は 有明の 月より外に 知る人ぞなき |
祇園島原撞木町 傾城狂いのそのうちに 病気なんどで死なんしゃんしたら 忠か不幸か わかりゃせんぞいのう <解説> 上記詩歌の様な俗謡でも、国を憂う志士達の志を巧みに織り交ぜ る所は流石詩歌の名手と言える。 彼は旅の道中や活動の合間にこういった和歌・俗謡などを数多く 謳い、今に遺している。 よく談合などで島原や祇園といった花街を利用していた久坂はその中で 芸妓達とよく交わっている。彼女達や同志の前でもこの様に詩を吟じたの かもしれない。 |
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