【久坂家】
久坂玄瑞誕生前の久坂家はどんな家系だったのか。久坂玄瑞の父と祖父は血族でなく、両者
ともとある事情から其々久坂家に入っており、玄瑞の生まれた久坂氏は様々な血筋で構成され
た複合世帯といえる。
ここで、まず祖父・良悦の久坂家入りについて調べてみよう。良悦は児玉家の臣であり、彼は児
玉氏付きで医業を営んでいた。久坂家へは、安永3年良悦31歳の時に、藩医である久坂家の
当主・久坂玄伯が幼年という事で、とても医業を引き継げる状ではない事から、このお家へ中継
ぎ養子として入る様になった。この事から、久坂家とは何らかの縁があったと思われる。良悦が
久坂家へ入って後、暫くは幼い玄伯の代勤を成していたが、やがてこれと分けた別家として毛
利家奥勤となる。玄瑞はこの祖父を非常に尊敬し、祖父の遺した日記や履暦書きを丁寧に綴り
保存し、自身の感懐など入れている。何時の日かこれらを纏め小傅など編集するつもりだった
のだろうか・・・。
続いて久坂玄瑞の実父である良廸についてだが、良廸も最初に記述した通り久坂氏の家系で
はなく、また玄瑞には祖父に当たる良悦とも血族ではないのである。良廸は、もともとは長州吉
本家の生まれである。彼は25歳の年、久坂家へ養子として入っている。久坂家といっても久坂
玄伯・・・本筋の久坂家ではなく、あくまで良悦の申請した別家・久坂家である。ここから久坂の
父は僅かな禄を養父となった良悦より引継ぎ、中井家養女・富子を迎え、玄機・玄瑞らも誕生す
るのである。
【誕生】
天保11年(1840)長門国萩平安古八軒屋(長屋)に住む藩医・久坂家の三男として誕生、幼
名を秀三郎といった。家族構成は父・良廸と母・富子、20歳も年の離れた兄・玄機の4人である。
次男は早くに世を去っており、秀三郎はこの兄とは接す機会がおそらくは無かっただろう。彼の
行動などは長子・玄機に影響される所が多かったようだ。
7歳の頃、吉松淳蔵の私塾へ通っていた秀三郎は、ここで後に盟友となる高杉晋作と肩並べ、
親友と言われる大楽源太郎もここで学問を学んでいた。秀三郎はやがて藩校明倫館(現在の
明倫小学校敷地内)へ入門すると、大いに学問に励み広く才を伸ばし、城下では評判の秀才
と謳われる様になった。この年、母・富子が病で亡くなり、悲嘆に暮れる秀三郎であったが、父
や兄と共に支えあい寂しい中再び学に打ち込んでいく事になる。早くから勤皇思想家との交流
を持っていた兄・玄機は藩から難儀な命を与えられ、激務の最中いよいよ病死してしまう。前年
の妻・富子と息子・玄機の突然の死に落胆した父・良廸は、すっかり弱ってしまいやがて彼等の
後を追うように逝く。相次ぐ家族の死により、幼い秀三郎が久坂家の若き当主として家督を継ぐ
ことになる。
この時、秀三郎という幼名を改め、玄瑞という藩医としての名へと改名するのである。歴史に残
る久坂玄瑞の起点は正にここからなのである。
【九州遊学と松下村塾】
安政3年(1856)、九州へ遊学した。そこで久留米の和田逸平を訪ね、詩作を語らう。
この頃の玄瑞は、まだ思想・志に燃える志士の彼ではない。あくまで、詩人としての旅であった。
久留米を離れ更に南下し、肥後藩へと入る。そこで、宮部鼎蔵と対談するも、玄瑞の詩人とし
ての論に宮部は厳しい戒めの言葉を投げかけ退出してしまう。落胆した玄瑞は、宮部の怒りの
意味を悟り、机上に一つの時勢を憂う詩作を書き残し辞そうとする。再び戻ってきた宮部は彼
の詩作に触れやっとわだかまりは氷解するのである。
肥後で吉田松陰なる人物を紹介された玄瑞は、萩平安古の自宅に帰ると、幾日かしてようやく
松陰宛の書簡を書き始める。何度かの書面による討論が続き、やがて玄瑞は松陰が彼の才を
試していた事を知ると、己のの小さきを恥じそれ以上の反論は出来なくなってしまった。その
後、孤独と成って以来玄瑞の教育者でもあり、兄・玄機の友人でもあった月性や中谷らの勧め
により、遂に彼は松陰の待つ松本村・杉家を訪ねるのである。松陰は玄瑞の来訪を喜び彼を
防長第一の才であると評し出迎える。多くの傑出した才人を輩出して行った松下村塾との出
会いはここから始まるのである。
その明くる年、玄瑞は師・松陰らの薦めにより、杉家の末娘・お文を妻として、めでたく迎える事
になった。これ以降彼は、杉家に移り生活する。玄瑞は、私塾や明倫館で机を並べた高杉晋
作や論を戦わせた山県小輔、伊藤俊輔らと共に定期的に塾へ通い時勢の変動について語り
合った。この村塾での議論は後に尊攘論・討幕論へと進化していく事になる。やがて、村塾で
玄瑞は旧知の盟友・高杉晋作と互いの才を切磋琢磨し、松門の双璧をまで評されるようになり
これに合わせて、吉田栄太郎(利麿)や入江杉蔵(九一)らは、後にその英才振りから松門の
四天王とまで称されるようになるのである。
【安政大獄と草莽屈起】
安政5年(1858)、江戸幕府大老職に彦根城主・井伊直弼が就任すると幕政は一変する。
浦賀に来航したアメリカのペリーや、ハリスと不平等な条約を締結するなど、政治を思いのまま
に動かしていった。この頃、徐々に攘夷(外国人を打ち払えという考え方)思想が広まりつつあ
り、井伊はこれらを反乱分子であると見、独裁的な見解を示し酷い弾圧を加えていくのである。
これが安政最後の年まで続く安政の大獄と呼ばれる、志士狩り政策である。
頼三樹三郎・橋本左内・梅田雲浜らも獄へ連行され拷問などの厳しい扱いの末、病死や刑死
といった悲劇的な最期を迎えている。その弾圧の波は、長州に住む玄瑞らにも遂に降りかか
ってきた。師・松陰の投獄である。萩より江戸へと護送された松陰を待っていたのは厳しい取
調べであった。内容は松陰が直接攘夷歎願を朝廷に出したのではないかその真意を問うとい
うものである。当然彼は否定したが、今独裁政を布く幕府側に届く筈も無く、松陰は遂に江戸
伝馬町の獄舎にて斬首刑に処せられるのであった。
この悲報を玄瑞は萩城下、杉家で聞いて酷く悲しむ一方、師や多くの同志と呼べる人材を弾圧
した幕府に激しい怒りを持つ様になる。最も強く松陰の思想に影響受けた玄瑞は、彼の遺志を
受け継ぎ、この後の活動を更に活発に加速させていくのである。
吉田松陰の訴えてきた思想の最たるものに「草莽屈起」の論があり、玄瑞は文久の年、それ
に近い思想の形として光明寺党という小軍隊的組織を結成し、同門の双璧・高杉晋作はその
光明寺党を基に、維新回転に大いに尽くした奇兵隊を組織している。この軍隊は武士だけで
はない。松陰が訴え理想とした志願により集まった草莽、すなわち民衆の革命組織なのである。
この様に、玄瑞らは松陰の遺志を現実の形とすべく、日本中を駆け巡り人物達と接触を図り、
江戸や京を中心に活動を広げていくのである。松陰を失ってからの玄瑞は正に何かに取り付
かれたかのように、休む間もなくひたすらに他藩志士との会合を重ねるなど、京や江戸を元と
して、日々忙しく活動に追われていた。その会合での彼の松陰から受け継いだ思想と言は他
藩の志士たちを感服させ、やがては長州の久坂の名を国に知らしめる事になった。
また、彼は志士だけではなく、朝廷の勤皇系公卿や役人達との接触も持ち、長州藩の名を持
って、尊攘思想を更には討幕思想を大いに広めていったのである。
【一燈銭申合せと攘夷戦】
文久元年(1861)、萩に居た玄瑞は門人らを旧村塾に集める為一通の文書を回覧する。
誘いに応じたのは、中谷正亮・伊藤俊輔・吉田栄太郎・品川弥二郎・寺島忠三郎・入江杉蔵
ら人で、その他塾生以外では桂小五郎や大楽源太郎であった。この内、大楽源太郎は当初
参加を渋っていたが、玄瑞の幾度もの説得により遂に従う事となったのである。一燈銭の結び
とは、それぞれが写本をし、それを売り得た財を蓄積し、活動資金として利用するというもので
ある。その他には、尊攘の浪士達を同志として匿う為のものであるとされている。
ただ、残念な事にこの写本をして得る資金活動、皆京や江戸へ随時運動に向かうものだから
、実際にこれを実行し財を蓄積する役割をになっていたのは、萩に残った中谷正亮と山田顕
義の二人だけであった。
<一燈銭回覧文>
此度、同社中申合せ自分々々の力を盡し骨を折りて、鎖細の事ながらも相貯、置き度き事に候。非常の変、不意の
急に差し掛かり候ても、懐中拂底にては差閊ふるものに候。逐々有志人の牢獄につながれ亦は飢渇に迫り候者も相
助け度く、義士烈士の碑を建て墓を築き等までにも力を盡し手を延し度き事に候へども、同社中、有余の金も有之ま
じき事に候へば、何れ此方の至誠をのみ貫き度き事に候。されば、毎月寫本なりともして僅かの貯へ致し置き度く、月
末松下村塾まで銘々持ち寄り致す可く候。半年にもせよ一年にもせよ、塵も積もれば山となる理にてきっと他日の用に
相立ち、用途も有之べく相考へられ候。同社中身の膏を絞り出して集むる事になれば、容易に費すべきにあらず、己む
を得ざる事あれば、同社中申合せの上にて取り捌き申すべく候。抑々人を救ふも、用に備ふるも、富貴長者のことなれ
ば、如何様にも相叶ふべけれど、我々にてかくまでにするは貧者の一燈とも申すべきことにて、至誠の貫かぬ理はよもあ
るまじき也。之れに依り、此度取立て候金を一燈銭と名付くる也。
一、毎月寫本六十枚づつ村塾まで必ず持ち寄り致し置き度く候事。
一、寫本料は先師の定むる所眞字(漢字)十行二十字五文、片仮名同断
四文の事。
一、一日僅に二枚づつの事なれば、さまで勉強にならぬ事はあるまじ。若し
此の数不足なる時は一枚五文の辻(割合)を以って相償ひ、必ず持寄り
度き事。
一、寫本紙、寫本取捌き等は逐々申し談じ合せ致すべく候へ共、當分の中
は、寫本紙は銘々心配有之べく候事。
右條々、此度申合せ候所、これしきの事さへ骨を惜しみ候位にては、我々の至誠相貫き候事も覚束なき事のやうに相
考へられ候。銘々屹と怠らぬやう致し度きことは申すも疎に候。
酉ノ十二月朔日 松下村塾同社中
「松下村塾生」
中谷正亮、佐世八十郎、岡部富太郎、福原又四郎、久坂玄瑞(主唱)、寺島
忠三郎、品川弥二郎、山縣小輔、馬島甫仙、入江杉蔵、山田市之允、久保
清太郎、松浦亀太郎、高杉晋作、尾寺新之允、伊藤利輔、野村和作、等。
「その他・同志」
樽崎弥八郎、瀧鴻二郎、堀眞五郎、前田孫右衛門、大楽源太郎、桂小五郎。
ここで、玄瑞ら尊攘を掲げる志士達に思わぬ情報が飛び込んでくる。皇女・和宮(孝明天皇妹)
降嫁の噂である。孝明天皇は、討幕や攘夷の意思などなく、むしろ幕府との繋がりを見出さん
と、公武合体論という思想を推していた。当然、この降嫁騒ぎに手を拱いてみている志士たち
ではない。玄瑞らは何とかこの流れを阻止せんと乗り出すが、結局徒労に終わり和宮は14代
将軍・家茂の正室として嫁してしまう。この事で、彼等の思想の成就は一時難しいものになるの
であった。
一方この翌年、長州藩にはまたしても一つの危機が訪れていた。藩是・長井雅楽による、航海
延暦策の発案である。これは玄瑞が求める攘夷思想とは明らかに異なるものであり、彼らの活動
の妨げになることは間違いないものであった。直ぐ様これに反対の意見を述べるのだが、温和な
藩主・敬親は既に長井雅楽の案件に傾倒しており、藩の情勢は一気に別の空気に塗り替えら
れていくのであった。
文久3年、玄瑞は攘夷督促の勅旨と共に江戸へ旅立ち、幕府にその期限を迫って帰還。再び
萩から出て下関へ向かうと、そこで光明寺党という軍的組織を結成させ、自らが率い動かしてい
くのであった。その後ほど無く馬関(関門海峡)を通る一隻の外国商船を見つけると、陸地から
の大砲射撃などにより、これを沈める。その数ヶ月後に外国の正式な軍船による報復射撃を受
け、一時馬関を制圧された。玄瑞の夷荻嫌いは他の志士より激しく、一度目の砲撃で商船を沈
めたときには大いに士気高め喜んだと言う。
【政変と禁門の変】
文久3年(1863)、尊攘思想を掲げ京を中心に独走する長州藩に大きな事変が起こる。
長州の朝廷政権独走を危ぶんだ薩摩は、同じくどうしたものか手を拱いていた会津に、長藩系
志士の京追放の一策を持ちかけるのである。薩摩と長州は共に犬猿の仲であり、かつて薩摩
志士には長州によって京政界から落とされたという恥辱の念が残っていた。
この数日後に長州藩は他藩の浪士らと共に帝を大和へ連れ出し攘夷祈願をするよう働きかけ
ていた。その動きの根底にある真意を掴み、同時に今上の意思が攘夷では無い事を悟った薩
摩・会津藩は直ちに公卿らに働きかけ、やがて帝を介し、長州藩の御門警備の解除と、長州系
公卿の禁足を命じる勅を出したのである。
何も知らぬ長州藩の藩士らは、事に驚きつつも逆らって汚名を被るを良しとせず、涙を飲んで
風雨の中、長州系の七卿を伴い帰藩するのである。これを、禁門の政変といい、また8.18に
起こったので8.18の政変とも呼ばれる幕末史の一種の節目の事件として記憶されるのである。
この帰藩の時に、駐留した寺院で義助が吟じた詩歌が有名な「七卿落ちの歌」なのである。
<詩歌>
世は苅菰と乱れつつ
茜さす日もいと暗く蝉の小河に霧立ちて、隔ての雲となりにけり
あら痛ましや霊(たま)きはる、内裏に朝夕殿居せし
実美朝臣 季知卿 壬生 澤 四條 東久世 其の外錦小路殿
今うき草の定めなく、旅にしあれば駒さへも、進みかねては嘶ひつつ
降りしく雨の絶え間なく、涙に袖の濡れ果てて
これより海山あさぢが原、露霜わきて葦が散る
浪華の浦にたく塩の、からき浮世は物かはと
行かんとすれば東山、峰の秋風身にしみて、朝な夕なに聞きなれし
妙法院の鐘の音も、なんと今宵は哀れなる
いつしか暗き雲霧を、払いつくして百敷の、都の月をめで給ふらん
文久三年八月十八日、おもふことありてこの舞曲をうたひつつ都をいで立侍る。
帰藩した義助は、入京の実力行使を訴える強硬派を説得する役目を負うことになる。強硬派の
主な論者としては、古武士の印象強い・来島又兵衛と久留米の神官であった真木泉の二人で
あった。やがて、藩の意思が京進発論へ傾くと、いよいよ長州は軍を出動させる命を出し、瀬戸
内の海路を通り大阪を経由し京への大移動を開始するのである。
7月、京は蒸し暑い熱気に包まれていた。義助が士分になって最初で最期の戦いは直ぐそこ
まで迫っているのである。藩兵を率いての入京は当然承諾される筈は無い。朝廷の拒否に対
し、到着してから何度も歎願の証書を送っていた義助は、あくまで慎重に対処し和を持って望も
うとしていたが、遂に真木ら強硬派に押されて進撃を余儀なくされるのである。こうして、朝廷や
京の町を巻き込んでの大戦の火蓋は切って落とされたのである。
山崎天王山から一隊の指揮官として任命された義助は、最期まで交戦に反対を示し、砲弾の
飛び交う市中を掻い潜り、長州藩主の冤罪を歎願してきた関白・鷹司卿の邸宅へ進入した。
丁度、卿は禁裏へ向かう所であった。義助は、すかさずこの度の戦に及ぶに至る経緯とこれまで
の歎願に記してきた藩の冤罪を卿に訴え足元に縋りつき、涙ながらに上奏願い出たが、禁裏に発砲したという事実から拒絶され縋る手を振り払われてしまう。卿が去って暫く、迫りくる敵に義
助は已む無く応戦したが、邸宅は激しい砲撃により燃え始め、義助自身流れ弾によって負傷。
もはやこれまでと自ら悟ると、傍に居た入江九一に後事を託し、寺島中三郎と共に自刃した。
(一説には刺し違えて死んだとあるが真相は不明)久坂義助、享年25歳であった。
<後日談>
鷹司の中小姓・で、兼田義和という人が居る。彼が久坂の遺骨を納めたという噂がある。
その兼田氏の談によると、義助等の自刃場所は内のお局口に違いないということである。義助
と共に死んだ寺島忠三郎、この2人が割腹を遂げた時、義助は傷を受けて、立ち歩く事も逃げる
事も出来ぬ状態であった。しかし、寺島は特に外傷も無い為、兼田氏は是非に逃げるべきだと
薦めたが、彼は、「久坂と一緒に死ぬる義理合だから、最期を是非見届けたい」という事で、お
局口で従容として自刃したそうである。その内、邸内は敵兵の砲撃により火が回って来た為、
兼田氏は逃げざるを得なかった。
炎が鎮火した邸跡を訪れた時、義助らが自刃した辺りへ行ってみると、焼け残りの遺骨が二体
在った為間違いなく割腹した二士のものであろうという事で、骨壷に収めて一條寺に持って行き
埋葬した。
やがて、時代が明治に入り、長州藩の志士たちの墓所を京都霊山に営んだ際、二人の骨もそ
ちらへ移し、久坂義助の分骨の墓は萩東光寺にある杉家墓所へも営まれた。明治21年には、
彼のかつての同志達の手によって靖国の宮へ合祀せられ、更に2年後、明治24年4月特旨を
以って正四位を贈られた。
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▼久坂玄瑞が生きていれば・・・
旧攘夷派指導者であり、志半ばで散った久坂玄瑞。彼がもし維新まで存命だったら?
外国を嫌う久坂が当時先進ともいえる英学を学んだという資料があり、彼が夷荻を斬れば良いと
いう単純な攘夷論からは脱していたというのは、水戸学の尊皇攘夷論を倒幕論へと変化させた彼
の思想的活動から伺えます。馬関での攘夷戦を経験し、異文明吸収の必要性も大いに理解して
いた事でしょう。
しかし同時に、久坂玄瑞は誰に対しても率直な意見を交し、自分の信じる道を阻もうとする者とは
正面から衝突し、決してその信念を曲げぬ性格といわれています。攘夷戦や禁門の変でも、信念
を貫き常にその先駆けとなっていきました。そんな義理深く、真っ直ぐに進んできた久坂玄瑞が自
身の説いてきた思想を簡単に転換するかが疑問です。
もし久坂玄瑞が開国思想を受け入れ、政府要人となっていたら不平等な条約締結のままの政策
訂正に着手したでしょうし、反政府勢力となった旧攘夷派同士達に対しての罰則もそこまで厳しい
ものにはならなかったかもしれません。それとは逆に攘夷思想を曲げなかった場合、政から一人
身を引き中央から遠い地方で国学等の学問指導者として生涯を送るという事も考えられます。
何れも想像の域であり、「こうなった筈だ」という断定は出来ませんし、久坂玄瑞像も人其々です。
反政府を掲げる旧攘夷派の人物たちの悲劇的な最期を調べていくうち、もしも義士・久坂玄瑞が
その時在命だったなら果たしてどうなっていただろうかと考えてしまいます。彼が最も重んじてい
たものは一体何だったのでしょうか。
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