■逸話 |
▼容貌 |
萩藩医であった玄瑞は、規則に従い当初頭を丸めていたが、大小刀を佩く事 は許されていた。彼が差していた刀は兄・玄機の形見といわれている。 玄瑞の容貌として、まず6尺豊かな巨漢で、やや右目は眇め(軽斜視)では あるが、色白の好男子であったという。初めて松陰を訊ねた折、妹のお文は 彼の美僧を思わせる容姿を見て「お地蔵さん」というあだ名をつけたという。 |
▼芸妓・辰と遺児 |
玄瑞は18歳で松陰の妹・文と結婚したが、京での活動中にも京島原の芸妓・ 辰とも深い仲になっていた。しかし、玄瑞が禁門の変で戦死。この芸妓との 縁も完全に絶たれたかのように思われたが彼の死後2ヶ月・・・辰は遺児・ 秀三郎を産んだ。玄瑞に似ているという同志の評により、正式に藩より嫡子と 認められることになる。 |
▼雑煮餅30個 |
文久3年(1863)元旦、長宗純三を訪ねた玄瑞は、新年の雑煮餅を30個も 平らげたという。凄まじさに長宗の娘が尋ねたところ、「私は近いうちに死ぬ だろうから、一生分の餅を今食べておくのだ」と答えたという。討死の前年の 逸話だが・・・。 |
▼松陰妹・文との結婚 |
安政4年(1857)12月、松陰は彼の優れた資質に惚れこみ、未婚であった 末妹・文を彼の妻として娶わせようとする。この話を聞いた後、中谷と玄瑞は 塾を出て対談する。「妻とするなら美しい人をと望んでおります」と言うに対し、 中谷は「貴様は妻を娶るのに容色を問うのか!」と詰る。これに玄瑞はカッと なって反論し、その日の内に松陰へ縁談承諾を申し出たそうである。 多くの小説等で取り上げられる一場面。真相は不明。 |
▼親友と同志>>日記における大楽源太郎との交流 |
平安古の久坂玄瑞邸付近に、大楽源太郎という人物が住んでいた。彼等は 近所に住んでおり、日頃から論を戦わせたり行楽に出かけたり、ある日には 玄瑞宅へ泊まるなど他の同士達とはまた違った深い交流を持っていた。 「一燈銭申合せ」の際には、渋る大楽を丁重に説得しこれに参加させている。 大楽と玄瑞は、晋作達村塾の同志とはまた異なり特殊な付き合いを持つ親 友同士だった。後に玄瑞が禁門の変で自刃すると、大楽は自ら筆を取り彼の 遺した詩文「江月斎集」を編纂し後世に残している。 |
▼作詞は晋作か玄瑞か? |
玄瑞は優れた詩歌を多く遺して居ることは有名だが、同志・高杉晋作の詠う 「三千世界の烏を殺し・・・」という都都逸(俗曲の一つで、多く男女間の情を 七・七・七・五調にまとめ、三味線の伴奏で唄われる。)は、晋作の作詞と されているが、玄瑞の作だという説もある。 |
▼久坂玄瑞蓄髪の謎 |
文久三年藩より久坂へ内々に辞令が下る。 久坂玄瑞。右此度、御内用これあり、鷹司殿に定詰仰付られ候。ついては、差支への趣も有之候に付、 先達て御沙汰の通り早々束髪候やう仰付られ候事。 <解説> 謹慎とかれて間もなく、玄瑞は政治折衝役として官邸詰を命じられるのである。その為、医者坊主の身分 では何かと不都合が生じるので髪を伸ばせと言われた。この蓄髪の命は、先日も儒官役に付くよう辞令を 出された時からであったが、あくまで武士を志した玄瑞はこれを固辞。これを受け藩は此度士分として改め て束髪するよう再度辞令を発すのであった。今度は玄瑞も喜んで引き受け髪を伸ばすと共に改名もした。 ------------------------------------------------------------------ 玄瑞が武士身分となったのは文久三年四月二十日となっている。 蓄髪を許されたのも正にこの時。ここで、ふと疑問が生じるのである。 個人差はあるが、人間は一年でおよそ12センチしか髪は伸びないという事は 生物学的に計算され一般的な発毛値として表されている。 武士となり蓄髪を始めてから、約一年後に禁門の変が勃発。丁度一年である。 12センチならば、曲げどころか結わえる事すら出来ない。先にも述べた個人差が あるから解らないが、この蓄髪の件、調べてみる価値はあるだろう。 |
▼久坂玄瑞銃撃事件? |
長州藩では、下関攘夷戦争(馬韓戦争)を実行した5月10日を記念日とし、 祝宴を開いていたという。 その際、過激尊攘志士達はどこから持ち寄ったのか、人体的異人図なるものを 広げ、それ目掛けて派手に銃撃を行なったと言う。これには玄瑞も参加し、彼は 大いに気炎を上げたと言われている。(討死の2ヶ月前の事である) |
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