尊皇と攘夷、二論の本来の意味と変化 幕末期から維新にかけて尊皇攘夷思想は政治運動の基本的理念として位置付けられ、革命に大きな役割を果たしました。封建制が長く続いた日本社会の中で、この尊皇(王政主義)論が政治的な力を持ち武士の間に浸透していったのは、水戸徳川藩主・斉昭らによって提唱された、「水戸学」からであると言われています。水戸藩士・会沢正志斎は、藩主に向かい、民衆の天皇に対する崇拝を利用し国民統合を進めようと進言します。しかし、この言は、あくまで幕藩体制を維持したままというのが条件であり、それらを否定した統一国家論ではありませんでした。この時の尊皇論はまだ討幕の議論に至るものではなかったのです。 尊皇論に対して攘夷論は全く別の議論でした。江戸初期に始まった鎖国令と、攘夷論が幕府の基本方針であり、特に武家階級には排他主義が深く根付いていたので、尊皇論と共に水戸藩が提唱した夷荻蔑視及び撃退、つまり攘夷論が全国的に支持を受け二論ともによく広まっていったのでした。この二論が「尊皇攘夷」という一つの言葉として盛んに用いられるようになったのは、嘉永6年の黒船来航に始まります。開国の是非を問う議論が交される中、これらは一つに結びつき、先に述べた本来の意味から大きく変化し、開国の反対や、幕政に対する不満を唱える際の文句となっていったのです。やがてはこの運動が大きくなり、遂には尊皇攘夷論は討幕論とも結びついていき後にくる維新回天の原動力となっていくのです。 河上彦斎、久坂玄瑞、大楽源太郎の思想と活動 尊皇攘夷と聞けば一般的に、王政復古を掲げた思想と言われています。幕末期、江戸幕府の権力失墜が囁かれる中、尊攘論を唱えた先駆者達はどの様な思惑を持ってこれを提唱していったのでしょうか。初期段階の攘夷論者達は幕府に代わる政権基盤として信仰強く崇拝されていた朝廷を選んだと考えられます。 いよいよ幕末期志士の台頭となる頃、久坂玄瑞は吉田松陰による尊攘論(草莽)に大きな影響を受け、江戸や京都での活動を始めていました。彼は多くの知識人や公卿と接する中で、尊皇論の考え方を徐々に変化させていきました。尊皇も攘夷も武士だけでは成せぬ事を教えられた久坂は、師の提唱する草莽に目をつける様になります。彼は直ぐ様藩内に呼びかけ、自ら草莽の先駆けとして、封建制では考えられなかった民衆による武装組織を結成しました(光明寺党、後奇兵隊へ編成)。これらの事象から、久坂玄瑞による新政府構想は、尊皇論としては帝を象徴とする一方で、民衆の台頭を目指し、幕府に代わる統一政府による国家平定を目論むものであったと考えられます。 また、同時期に活動を始めた河上彦斎も、肥後勤皇党の同志達と共に新政府樹立(国家と国民の糾合によって富国強兵し、あくまで“平等条約”における対外政策をとる中央集権政府)に向け立ち上がりました。彼は開国派の国学者佐久間象山を斬ったことから“人斬り”と称され恐れられましたが、静かに茶を点て朝廷への忠節を和歌で示すなど単純な暗殺者とは違った一面を持っていました。維新後彼は、有終館という兵学校を建立し、ここで学んだ多くの同志達は彼の志を継承していき、後世に伝えています。 久坂玄瑞達とは一つ前の段階の思想家大楽源太郎は、吉田松陰・頼三樹三郎等と同時期に活動を起こした人物でした。大楽は詩歌にも優れ、数多く世情を憂いた作品を遺しています。尊皇攘夷論をいち早く提唱し、京都での他藩憂士との交流活動も盛んで、若い志士たちにとってはまさに時代の先駆者といえます。久坂玄瑞とは親しく交わり、彼が民兵組織に着目するのに対し、大楽は国学を指導する学舎を建立し、若者達の思想教育に尽力しました。教科はやはり新論や弘道館記述義など水戸学中心のものや、靖献遺言(浅見絅斎著)など尊皇論の起源を記した書物で、これらを基に講義を行っていました。 無冠の志士たち(明治四年事件から神風連の乱へ) 尊皇論から攘夷論、そして倒幕論へと変化していったこれらの思想は、維新が成った後方針を開国に切り替えた新政府と真向から対立していく事になります。 その発端となったのは明治3年。藩兵解体・廃刀令を唱える大村益次郎の暗殺事件や山口の脱走兵による藩庁取り囲み事件の嫌疑をかけられた大楽源太郎が、河上彦斎(高田源兵衛と改名)の有終館を訪れ反政府軍決起のための支援の要請をした事に始まります。政府は河上を、尚も尊皇攘夷論を唱える脅威的な存在であると日頃からマークしていたので、彼らが事を起こす前に逮捕します。たとえ在野であっても旧尊皇攘夷思想家の存在が政府にとって都合の悪いものだと言う事は、翌明治四年に河上が何の取調べも受けないまま「容易ならざる陰謀を企てた」という曖昧な判決により斬首された事から窺えます。 一方大楽も河上逮捕後、尊皇攘夷思想の根強い久留米藩応変隊を説得し回天軍を挙げるという活動をしていました。当初応変隊は旧攘夷派の先駆者である大楽を敬い厚遇しますが次第に政府の圧迫に耐えられなり、已む無く彼を斬りその首を新政府に差し出し難を逃れます。これが「明治四年事件」と言われる維新後最初の反政府事件となるのです。 明治9年、河上彦斎の同窓の友人である太田黒伴雄が、熊本城の鎮西鎮台とを襲撃する「神風連の変」が起こります。神風連とは、幕末肥後藩の勤皇学者、林桜園を党首とする“敬神党”の別名です。神風連(敬神党)は、桜園の教え「神事は本也、人事は未也」をかかげ、明治9年に国政を開国へと転換させた新政府と戦います。同時期に起こった萩の乱、秋月の乱、そして西南戦争といった不平士族の反乱と違い、あくまで日本の“伝統”、“精神”、“文化”を守ろうとした思想的反乱が、この神風連の乱なのでした。首領の太田黒は烏帽子姿に日本刀というあくまで欧化主義との対立を象徴するようないでたちで、170余名を率いて近代兵器を揃える新政府軍と戦いました。彼らは戦術、利害打算など何も持たず、“勝つこと”を目的とせず“戦うこと”に意義を持っていたのです。神風連の乱はその日のうちに鎮圧され、太田黒伴雄は銃弾を浴びて負傷、民家へ逃げ込み自刃します。思想の対立によって引き起こされた戦争は、この神風連の乱が最後であると思われます。 河上彦斎や大楽源太郎、そして神風連。「尊皇攘夷」と言う思想を捨てきれず非業の最期を遂げた人間たち。開国政府と相対した愚かなる排他的純国粋主義者というイメージを植え付けられたままの彼らは、一体何を叫んで死んでいったのか。文明開化後140年、国際化に伴い日本民族の独自性が薄れていく中で、彼らの本当に守りたかったものが少しずつ見えはじめているような気がします。 |