二の丸広場

熊本城本丸より西の方向には、二の丸広場があります。

江戸時代には家老や藩主一門などの武家屋敷が置かれており、1755年(宝暦5年)には藩校「時習館」が開校(1870年(明治3年)に閉校)、肥後の学問の中心となりました。

1871年(明治4年)陸軍の拠点として、鎮西鎮台が設置されました。更に1873年(明治6年)には熊本鎮台と改称し、1874年(明治7年)熊本鎮台司令部は熊本城本丸へと移転しました。1875年(明治8年)に二の丸広場は、歩兵第十三連隊が置かれました。

1876年(明治9年)10月24日23:30、神風連第三隊富永守国率いる70名が、歩兵第十三連隊に討ち入りをしました。神風連が焼玉を歩兵営に投げ入れ、瞬く間に歩兵営は火の海となり、出てきた鎮台兵を斬り倒して行きます。燃え盛る炎は、夜中でありながら神風連の姿を鮮やかに映し出しました。

 その後、太田黒・加屋ら率いる神風連第二隊が南門から加勢に来るも、鎮台兵の銃射撃の猛攻に敵わず戦況が逆転していきます。神風連は銃は持たず、次々と倒れ死傷者が続出しました。また、鎮台側の死傷者も多く出ました。

現在、二の丸広場は大勢の人々が集う憩いの場として親しまれています。戦いの史跡を見る度に、「149年前この場所で、先人達の戦闘が存在した事を忘れてはならない」と思わずにはいられません。

⬆️歩兵第十三連隊之跡
⬆️現在の二の丸広場、穏やかな昼下り
⬆️将士奮戦之跡:鎮台兵がこの大樟を背に銃に着剣し   円陣を組み、神風連の攻撃を防御した
  • まーちゃん

    三度の飯より歴史が好き

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