
鹿島甕雄(かしまみかを)
幼名 駒喜
父親は一法、母親は多喜子という。
彼は、正直で飾ったところのない性分で、快活によく食い、樹下一雄や田代儀五郎と共に党中では健啖(好き嫌いなくよく食べること)で知られていた。
義挙に先立っては、佐藤源太郎や赤嶺一雄と共に阿蘇に詣で、阿蘇神社に弓矢、旗竿を奉納し恭しく大望をねんごろに祈願した。
一挙の晩、鹿島は米村と共に砲兵営をよく攻め立てるが、旗色が悪く敗走を余儀なくされ窮地に立たされる。
烈士達は、覚悟を定めると切腹を決するにあたり、一首を詠んだ。
たとえ身は空しき露と消えぬとも攘はであらめや四方のえみしを
鹿島甕雄以下烈士達はいよいよ屠腹するにあたり、取り乱すどころか互いに笑い合った。
鹿島曰く、
「僕がここでは1番の年長じゃ。先に死出のご案内をいたそうと存ずる。と言っても、自害は初めてでござる。ちっとも勝手がわかりもうさぬ」
と、おどけて言った。
鹿島は再び姿勢を正すと先の宣言のとおり、真っ先に腹を切った。
享年二十五。
10月25日のことであった。
【説明】
旗竿(せいき)・・・旗竿に鳥の羽などの装飾を垂らし付け、天子が式を鼓舞するのに用いる旗の総称。
写真:神風連資料館 収蔵品図録
資料:神風連血涙史
