金峯山

⬆️熊本城天守閣より眺める金峯山

熊本市西区に位置し、その高さは標高665m。この金峯山一ノ岳を中心としたカルデラ式火山(現在は活動無し)、そして二ノ岳、三ノ岳、朝日山等を含む外輪山の山の総称となります。近くにも様々な山が加わりますが、遠くは立田山までが外輪山となっています。

金峯山は県立自然公園に認定されており、ハイキングコースや登山道があります。歴史的には、剣豪宮本武蔵が「五輪書」を書き上げた霊厳洞、小説家夏目漱石の作品「草枕」に出てくる峠の茶屋等があり、観光客が訪れています。山頂には展望台があり西に有明海、東に熊本市街と遠くに阿蘇を眺める事が出来ます。

金峯山と呼ばれる様になったのは、832年(天長9年)淳和天皇が奈良県吉野地方の金峯山から歓請した金峯山神社(蔵王権現)が山頂に建立されて、飽田山から金峯山と呼ばれる様になりました。

⬆️金峯山山頂にある金峯山神社

神風連にも金峯山は縁のある場所です。

荒木精之著 「神風連実記」からのエピソード

「金峯山に登ったのは四十六人だった。鬼丸競、阿部景器、石原運四郎、小林恒太郎、古田十郎、鶴田伍一郎、加々見重郎、福原秀久、浦楯記、田代儀太郎、沼沢広太、樹下一雄、野口光雄、楢崎楯雄、鹿島甕雄、水野貞雄、米村勝太郎、椋梨武毎、田代儀五郎、坂本重孝、森下照義 その他といった顔ぶれだった。(中略)

 一同は昨夜からの戦闘につづく夜中の西走、そしてこの嶮山の登攀に疲れ切っていた。白く光る白川をさかのぼると熊本があり、熊本城が見える。彼らは山上の枯芝の上に足を投げ出し、あるいは横になって昨夜のことを思い、家に残した父母弟妹や妻子のことを思い、戦死した誰彼のことを思うのであった。」

 熊本鎮台との戦いの後、北岡御邸にて細川の御子の護衛の為にいた学校党に応援を頼むも断りを入れられました。神風連は再興の為、これから海を渡り島原へ行きを考えました。まずは高橋へ行き船を出そうとしました。しかし、干潮の為に船が出せず断念します。

 それならば金峯山に登り軍議をする事としたのです。最終的には神に神慮を伺う事とし結果、再度戦うと言う事を決めます。重鎮等は若い者を死なすのは忍びないと、二十歳以下の若者は山を下る事になりました。若者は共に死なせて欲しいと懇願しますが、受け入れられませんでした。

⬆️金峯山山頂より熊本市街が見える

 戦い死ぬ覚悟の出来た者達一同も夕方に山を下り、神風連の者の家に立ち寄った際に熊本鎮台と警察の捜索や監視が厳重なのを聞きます。再び神慮を伺い、軍議にて松尾にある近江津に出て船で島原へ行こうと決めましたが、官より船止めをされてしまいました。

 結果、集団行動から各個人で潜行し長州萩や秋月にて戦いに参加して死のうと決意したのでした。この時、10月24日の戦より26日の出来事でした。

⬆️現在の近津港より島原行きを目指すも断念

 金峯山山頂に登ると私はまず、熊本市街を眺めます。この場所から神風連烈士はどの様な気持ちでいたのか。もちろん大事な人の事を思ったのでしょう。戦いで生き残った者としての責務、神の加護を胸に命を散らそうと更に決意した場所として私の心に深く残るのでした。

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    まーちゃん

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