
敬神党で太田黒伴雄の信頼厚い参謀、富永守國の足取りを記すものである。
義挙に敗れたのち、藤崎宮に退避し、上野堅吾、吉岡軍四郎ら手負いの諸氏を残して、北岡邸に残る諸豪党よりの沙汰が無いため、自ら林田鐵太を伴い北岡邸へ。
一先ず従兄の日下野家へ立ち寄り坂田弾蔵を呼び寄せ、弟喜雄が深傷を負って鹿島宅に御軍神とあるゆえ、敵の手にかけさせる前に刺し殺せと命じた。
従兄邸で一夜を過ごしたのち、林田宅へ潜伏。
林田の父が偵察した内容から、再挙不可と察し、いよいよ覚悟して林田に言い放った。
「僕は謀主の一人として義に準じ死すべきである。だが、君は僕とは事情異なるゆえ、寧ろ生を全うして永く君国に仕えてくれ」
それに対して林田曰く
「いや、こと敗れては某も一死以って武士の面目を立てたい。生きて縄目の恥を蒙るわけには参らぬ」
と、凛として聞き入れぬので、共に覚悟を決し、林田の父へ実母への遺言状や短刀を託し、「母へお渡しください」といった。
一同別れの盃を交わし終えると、辞世を吟じつつ裏山を伝い甲山へ登や、熊本城の篝火を睨みつつ、ここを自刃の場と決めた。
空を照らす月影が志士の最期の弔いであった。
甲山山頂に二人は座を定め、林田が先ず腹を切ると、富永は手早くこれを介錯し、次いで自らの腹をかき割き、そのまま返す刀を喉に突き刺し美事な最期を遂げた。
孝行者の富永は諸氏へ託した手紙に母のことを「宜しく奉り願う」と記している。
