
身のよだつ恐怖を経験しないと書けないこの言葉。
人間には生まれながらに防衛本能が備わっていると言われているから、恐怖体験は一生の記憶として残存するのでしょう。
「恐ろしき一夜」 1876年(明治9年)10月24日の日付が変わろうとする時、熊本の神風連が熊本鎮台司令官 種田政明少将への襲撃を自宅より目撃したのは当時9歳の少年であった徳冨蘆花でした。
徳冨蘆花は徳富蘇峰の弟であり、兄の蘇峰はジャーナリスト・思想家、蘆花は小説家として活躍しました。二人とも、近代日本の文壇と政治に多大な影響を与えました。
当時9歳の徳冨蘆花少年が体験したものとは…
ー徳冨蘆花「恐ろしき一夜」よりー
「吾家は熊本の東郊にあり。種田少將、高島中佐の寓居とは、わづかに一條の小川數畝(すうほ)の圃(はたけ)を隔てて、夜は咳嗽(しはぶき)の音も聞こゆるばかりなりき。
十月二十四日の夜、吾等は晩く(おそく)まで睡らでありき。姉上病重く、危ふかりければ、母上を始め多くは枕邊(まくらべ)にあり、醫師も通夜し居たり。夜の更け行くまゝに、霜氣膚に迫り枕邊(まくらべ)の行燈の光も氷りつきたるように薄らぎ、常時九歳の吾は震ひながら母上の膝に倚りてありしが、眠りこけぬ。


忽ち(たちまち)耳元に母上の聲(こえ)して、吾は蜜柑の山の夢より呼び覺まされぬ。此は母上の姉君に向かひ「お常さん、苦しからうけれども、一寸の間呻吟かず(うめかず)に居ておくれ、何様たゞならぬ音だから」と云いたまひたる聲なりき。聲終らざるに、川向ふの方にあたりて怪しき物音、姉君の呻吟(うめき)の聲にまじりて聞えぬ。姉君は唇を噛んで默したまひぬ。吾は一身耳なりて傾聽(けいちやう)す。忽ち(たちまち)ばた〜足音聞ゆ。頓て(やがて)喉突かるゝ鶏の苦しむ様なる一聲(ひとこえ)、絲(いと)の如く長く曳(ひ)いて静かなる夜に響きぬ。一瞬の後、忽ち(たちまち)あつと一聲女の聲して、其聲のぱつたり止むと思へば、更にひいと一聲悲鳴の聲悽く耳を貫き、ばた〜足音響き、戸障子の倒るゝ音して、其後(そののち)は截(き)つたる様に靜になりぬ。


母上は眞蒼(まっさを)になれる年若き醫師を叱り勵まし(はげまし)、帯引き締めて、「御身も男ではないか、來て御覽」と言ひつゝ、余が右の手を執つて引き立て、二階に上がりて、北の雨戶を一枚がらりと引明けたまへば、此はいかに、眞黑(まくろ)き背戶の竹藪越しに空は一面朱の如く焦がれたり。城の方を見れば彼處に火あり、此方にも火あり。火は一時に五ケ所に燃え、焔(ほのほ)は五ケ所より分かれ上がりて紅く空を烘(あぶ)り、風なきにざわつく笹の葉の數(かず)も鮮やかに數(かぞ)えよまるゝばかり。耳を澄ませば、何ともしれぬ物音騒がしう火焰(くわえん)の間に聞ゆ。





强盗の騒と思ひしに、此れはまた凄まじき火事なり。然ど此の火事よも尋常の火事にあらじ。兎に角用心せよと、母上は燈心(とうしん)かき立て、家内の者殘らず呼び起して戶をよくさゝせ、偖(さて)様子を見んと獨(ひとり)門外に立出でたまいしが、やゝありて、「戰争(いくさ)!戰争!」と云ひつゝ歸(かえ)り來たまひぬ。城の方より銃丸二つ三つ、流星の如く闇を貫いて母上の頭上を飛びしとなり。

(中略)
限りなく長かりし夜はやう〜あけて、生白き曙色(しょしょく)、雨戸の節穴(ふしあな)より覗き込みぬ。戶あくれば、夜は灰色に明けたり。日も出でながら薄寒く、言ふべからざる不穏の空氣はおど〜しく空を包み地をおほいぬ。昨夜の事は恐ろしき夢なりしか。夢の様にもあり、否夢ならず、夢ならず。」
神風連高津運記率いる第一部隊総勢6名にて、熊本鎮台司令長官 種田政明少将の首を討ち取りました。そばにいた愛妾小勝が負傷し、後に東京の親許に「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」と電報を打ち、新聞に出て評判となりました。その他にも数名の死傷者がいました。
私はこの襲撃の現場の近くを通る事が度々あります。現場(種田政明旧居跡)前の小川を眺めながら、耳には車の往来の音がひっきりなしに聞こえて来ます。
現在は、徳冨蘆花少年が目撃した窓からは遠くを眺める事は出来ません。この「恐ろしき一夜」の文章を頼りに過去へ連れて行って貰うしか術がないのです。しかし、まるで私が目撃しているようなリアルな感覚に陥るほどの衝撃は、私の心から消える事はないでしょう。時を経て時代が変わり建物や文化が新しくなっても、歴史は確かに存在するのです。
幕末から明治期に入り、熊本も近代化の波に揉まれ激しい政争の真っ只中にありました。旧藩士や庶民には、理不尽な事もあった事でしょう。それでも懸命に生きようとした先人達の歴史を受け継ぐのが私達の使命と心に留めながら、その場をあとにしました。