
天保7年丙申1月13日(a)に熊本高田原仲間小路(b)に生れる。
その祖は、菊池氏一族であり、正平14年8月筑後大保原合戦(c)で戦死した加屋兵部大輔である。
父である熊助は中小姓(d)であったが、ある事件に連座して自刃し、後は列伝にあるとおり、家名断絶から再興までの道のりがある。
当時16歳での家名断絶で、幼少の為・・・と理由付けしているが、実は当時既に元服しており、烏帽子親は彼が指示していた、木村楯臣で一字を授かり楯列となっていた。何れにせよ、家名を背負うだけの力量が未だ無しと見ての事と取れる。
加屋霽堅(縈太)の容貌については、「巨漢」や「優美ならずとも」とさまざまな資料に描かれている。総じて出会えば思わず襟を正す程の厳格な人柄とあるが、よくよく読み解けば彼は至って普通の人なのである。
その人となりは石光真清著の「城下の人」に描かれている。著者の幼少期に出会った、挙兵前の加屋霽堅の姿だ。翁は石光氏ら少年たちの稚児髷や刀を差した姿を満足そうに眺めた後、子らを抱き上げあやしたり熊本城が一望できる加藤清正公縁の場所で公の話を聞かせてやるなど優しい一面もあり、彼の普段着の姿を知ることができる。
維新の功労として政府より賞典(e)がなされると、これを素直に受け入れ先輩格の高田源兵衛(河上彦斎)と図り、同胞の慰霊祭を取り行った。
また、暦が太陰暦(旧暦)から太陽暦(西暦)に変わると、天子様が使っており問題なしとして使用の可否判断を仰ぐ後輩に「天子様も使われているし、不便はないから使うと良いだろう」と勧めている。
渡来のものは全て不可という頑なさはなく、柔軟に受け入れる意外性を見せている。
普段の烈士達は、我々と同じ日々を普通に生きる人々で、全てに閉鎖的な思考の人々ではないということがわかった。
以下、文中の注釈を追記しているので参考にしてほしい。
(a)天保7年丙申1月13日
現行の暦では2月29日(28日)になる。
(b)熊本高田原仲間小路
現在の熊本市上通・下通一体(白川と坪井川の中間)は中下級武家屋敷が並ぶ町であった。高田原(こうだばる)にある仲間町は、下通町(白川沿い)にあり、加屋先生はこの近郊にあったと思われる武家屋敷で誕生したと思われる。
(c)正平14年8月筑後大保原合戦
南北朝時代の合戦。吉野朝廷と京都朝廷をそれぞれに建て、各地で繰り広げられた合戦の中でも、特に規模の大きかった戦い。
南朝側である後醍醐天皇に従った菊池武光率いる軍勢四万と北朝六万による計十万の大規模な合戦となり、戦いで3万近い将士が斃れたという。関が原などに並ぶ日本三代合戦の一つである。
(d)中小姓
侍と足軽の中間に位置する階級。
加屋家は最下級士族という事になる。
ちなみに加屋霽堅は二人扶持(勿論再興後)となり、一家4人程度が普通に生活するだけの財力だったことが伺える。
(e)賞典(しょうてん)
明治維新に功労のあった人々(公卿、華族など)に与えられた褒賞。
賞典禄と言い、今の賞与のようなものと思われる。藩主から、藩主へ支給されるものもあり、当初は土地なども支給対象になっていたが、大久保や木戸の反対に遭い、禄米へと変更された。然し、財政的な理由から、僅か7年でこの政策は終了した。
少しずつ、紐解いていくと彼らの苦楽の生活が垣間見え、歴史の面白さを感じられるものである。
こうした「加屋霽堅」探索を今後も続けたいと思う。
