年号(西暦) 久坂玄瑞年譜 幕末事象
天保11年(1840)
萩平安古にて久坂家3男として誕生。

嘉永6年(1853)
吉松淳蔵私塾で高杉・大楽らと学び、
後に藩校明倫館へ入る。

この年、母・富子を失う。

ペリー浦賀に来航し、各条約締結を
幕府に迫る。
安政元年(1854)
兄・玄機の急死、父も後を追うように
亡くなるなど、身内の死が相次ぎ玄瑞が
家督を継ぐ事になる。

日米和親条約締結。
安政3年(1856)
九州を訪れ宮部らと論じ、吉田松陰へ
書簡を送る。

ハリスが日米修好通商条約締結を
求め、来航。
安政4年(1857)
松陰へ師事し、その年の末に妹・文と結婚。

幕府は大いに慌て、諸大名に
意見を仰ぐ。
安政5年(1858)
江戸へ情報収集の為、遊学。

井伊直弼が大老職に就く。
日米修好通商条約締結など、独裁的幕政が敷かれ始める。
安政6年(1859)
師・松陰が江戸で処刑。

大老・井伊による志士狩で、多くの
思想家が処刑される。
万延元年(1860)
同志らと松陰百日祭を行なう。

井伊直弼暗殺さる。
公武合体策の案件として和宮降嫁が
公表される。
文久元年(1861)
桂、高杉、大楽ら同志を集め、一燈銭申合せ
を約す。

長井雅楽の航海延暦策発案。
文久2年(1862)
藩是・長井雅楽との対立。

高杉・井上らと横浜英国公使館を焼き
討ちにする。

和宮降嫁と島津候上京。
薩摩藩による寺田屋事件勃発。
航海延暦策、朝廷より却下さる。
生麦事件起こる。
文久3年(1863)
下関で光明寺党を結成し、馬関(関門海峡)
にて外国商船襲撃を起こす。

藩より士分へ取りたてられ蓄髪を許される。
この時玄瑞から義助へ改名。

上京して攘夷親征の朝議推進をはかる。

8月18日薩摩・会津により、禁門の警護を
解かれ長州派の七卿と共に都を追われる。
(8・18の政変)

政変後、京都へ潜伏し鷹司卿と度々接触し
冤罪を訴える。

幕府攘夷期限の上奏をする。

薩英戦争勃発。

攘夷祈願の大和行幸の詔勅が下る。

会津藩他、公武合体派により京の
政局が一変する。(8.18政変)

元治元年(1864)
京より帰藩し、軍の上京阻止の訴えを出す。

藩が京への進発を推すと、義助も藩兵を率い
上京。入京後も度々朝廷への歎願書を出すが
退けられる。

最後の軍議で、あくまで慎重論を唱える義助は、
武力による強硬派に押され、遂に出陣。
会津・薩摩をはじめ、多くの幕兵に攻め寄せられ
最初は勢いのあった長州軍も崩れ始める。

義助も鷹司邸にて、交戦中負傷し、進退窮まり
同志等と共に邸内で自刃した。
(享年25歳)

宮部鼎蔵・吉田利麿ら、池田屋事変
により、新撰組と戦うも討死。

1ヶ月後、池田屋事変に憤怒した
長州藩・尊攘浪士らと禁裏にて
会津・薩摩を主体とする幕府軍が
大激突し、禁門の変(蛤御門の変)
が勃発。

この後、幕府による第一次征長戦が
起こる。


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